浅間神社(宝篋山山頂)[神社]⛩ 甲斐国一宮📜 式内社(比定候補)
📍 549J+32 日本、茨城県つくば市 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)【忍性菩薩像造立記】
忍性(一二一七―一三〇三)は鎌倉時代の律宗の僧侶である。西大寺叡尊のもとで修行し、その教えに従って、生涯を仏教に盛んにすることと、民衆を救済するために力を捧げた。若年より慈悲の心が深く、学問をして自己研鑽に努めるよりも、人のため、とりわけ弱い者・貧しい者・病む者のために力を尽くすことを志した。
忍性は建長四年(一二五二)三十六歳の時、奈良を離れて遠く東国に下り、ここ小田の極楽寺に至りついた。それは律宗の感化のまだ及んでいない東国の人々に、釈迦の教えの功…
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【忍性菩薩像造立記】
忍性(一二一七―一三〇三)は鎌倉時代の律宗の僧侶である。西大寺叡尊のもとで修行し、その教えに従って、生涯を仏教に盛んにすることと、民衆を救済するために力を捧げた。若年より慈悲の心が深く、学問をして自己研鑽に努めるよりも、人のため、とりわけ弱い者・貧しい者・病む者のために力を尽くすことを志した。
忍性は建長四年(一二五二)三十六歳の時、奈良を離れて遠く東国に下り、ここ小田の極楽寺に至りついた。それは律宗の感化のまだ及んでいない東国の人々に、釈迦の教えの功徳を伝えようとするやむにやまれぬ思いに迫られたためであった。当時仏教界において は、僧侶が守り実行しなければならないとされた規則(戒律)は全く忘れ去られていた。従って釈迦の教えを受け継ぐ僧侶は、本来は民衆の救済を使命とすべきはずなのだが、そのことに関心を抱く僧侶は東国には乏しかった。慈悲心の厚い忍性は単身この東国に乗りこんで、「釈迦」の教えを再興することを目指した。
釈迦の教えの根本は、もろもろの悪を為すことなかれ(諸悪作す莫れ)、もろもろの善を実行せよ(衆善奉行せよ)に尽きる。律宗はこの悪は犯すな、善は行えという戒めを説いて、その実践が人々の救済になることを約束した。
残念ながら、忍性が小田の地で果たした事績について、具体的に伝える史料はわずかである。小田に十年居て、それから鎌倉に移った忍性は、そこで貧しい人々や病者の救護に当たったことが知られている。これらの輝かしい功績により、嘉暦三年(一三二八)後醍醐天皇より菩薩号を賜った。
今年二〇一七年は忍性生誕八百年になる。その人の遺徳を偲び、有志の者が集い、ここに忍性菩薩像を造立した。像はハンセン病の子供を背負う姿である。
二〇一七年十一月四日
宝篋山忍性像建立会
宝篋山整備隊
文 井坂 敦実
忍性菩薩像
浅間神社
宝篋山頂