極楽寺公園(忍性記念)[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田 545F+9M 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)極楽寺と忍性について
ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。
極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。
今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。それは民心を掌握するための手段であった。寺社領を寄進したり、寺社領内の寺院や…
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極楽寺と忍性について
ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。
極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。
今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。それは民心を掌握するための手段であった。寺社領を寄進したり、寺社領内の寺院や神社を修復したりするのは通例のことであった。八田家によって造営された極楽寺の規模について〔判読不能〕この時寄進された鐘は土浦市の等覚寺に現存する。
奈良西大寺の僧忍性がこの地に来たのは建長四年(一二五二)のことであった。仏法を興隆し衆生に利益〔判読不能〕僧侶は髪を剃り僧衣を着てはいるが、実際のところ〔判読不能〕戒律も知らず、僧として勤むべき修行も怠る有様であった。律を弘め〔判読不能〕この極楽寺について常州三村山八坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺ナリといわれるまでになった。
正嘉二年(一二五七)に至り、忍性は極楽寺の遺趾である〔判読不能〕舎を一新した。それが今に残る極楽寺の堂である。山腹には薬師堂がそびえたち、山裾には僧寺と尼寺が並びたって、壮麗な景観であったことだろう。
戦火を免れた石造物は小田の地に数多く残っている。不殺生界碑・石灯籠・宝篋印塔・地蔵菩薩立像・五輪塔など稀代の名品である。
忍性は小田の地を去って鎌倉に移った後、鎌倉の極楽寺においてその生涯を終った。
平成二十六年四月
宝篋山整備隊