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由緒大辞典

KAMI-LEGACY

土地の由緒を、種別・神仏・主題・地域から引く。
原文(由緒板の写し)と、AIの読みは分けて扱う。

84 由緒あり / 84 うち原文取得済み
種別 全て その他13 古墳9 城址1 18 神社40 遺跡3
主題 ✕ 前方後円 神仏習合9 山岳信仰6 鎮魂6 天神信仰5 前方後円5 横穴式石室5 律宗4 忍性4 筑波山4 阿弥陀信仰4 道祖神4 地蔵信仰3 磐座3 稲荷3
神仏 阿弥陀如来8 地蔵菩薩4 宇迦之御魂神3 菅原道真3 薬師如来2 火産霊神2 大国主命2 岐神(くなどのかみ)2 天鳥船神(あまのとりふねのかみ)2 住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)2 応神天皇(八幡神)2 稚産霊神2
▽ もっと(全92柱)
埴山姫命2 木花開耶姫命2 観音菩薩2 勢至菩薩2 一言主大神2 素戔嗚1 木花咲耶姫命1 不動明王1 弘法大師(遍照金剛)1 羽黒大神1 伊弉冉命1 愛宕神1 天照大神1 天穂日命1 別雷命1 於岐都説神(おきつせのかみ)1 雷大神(別雷神)1 須佐之男命(津島大神)1 菅原道真(天満宮)1 稲荷神(宇迦之御魂神)1 田の神1 牛頭天王(天王宮)1 少彦名命1 大己貴命1 宇気母知神(保食神)1 伊邪那岐命1 伊邪那美命1 市杵嶋姫命1 須佐之男命1 金山比古命1 八幡神1 天御鉾命1 イザナギノミコト1 天御中主神1 国常立尊1 筑波男神(伊弉諾尊)1 筑波女神(伊弉冉尊)1 弥勒菩薩1 鹿島明神(武甕槌)1 白鳥明神1 弁天1 天照皇大神1 伊弉諾尊1 伊弉冉尊1 六神(六祖神霊)の荒御魂1 司官御霊1 蔵王権現1 志那都比売神1 中筒男神1 志那都比古神1 猿田比古神1 木花咲耶姫神1 武甕槌命1 建御名方命1 事代主命1 毗那良珠命1 天神(天神社)1 道祖神1 大山咋神1 道祖神(塞の神)1 猿田彦命1 日本武尊1 毘沙門天(多聞天)1 波切不動明王1 弘法大師1 天満大自在天神1 稲荷尊1 大弁財天1 熊野権現1 馬頭観音1 清龍権現1 素戔嗚尊1 イワナガヒメ(磐長姫)1 がま大権現(光誉上人)1 十一面観音1 六道能化地蔵菩薩1 三宝荒神1 大山祇命1 積羽八重事代主神1 市杵島姫命1
並び 新しい順 社名 地域

5件 主題「前方後円」 で絞り込み

宮山観音堂[寺]
📍 日本、〒300-4504 茨城県筑西市宮山500−4 2026-09-04
— 由緒板の原文(読めた字)市指定有形文化財 宮山観音堂 平成十四年十一月十五日指定 宮山観音堂の創立は明らかでありませんが、江戸時代には鹿島神社の本地仏である十一面観音を祀り、とくに牛馬の安全を護る仏として崇敬されていました。明治の神仏分離によって所属していた無量院が廃寺になり、観音堂は鹿島神社の末社駒形神社となりました。現在の建物は享保八年(一七二三)上棟の棟札があって、様式手法上もその時の建立とみられます。大工棟梁は箱田村(現笠間市)の藤田孫平次で、同人は享保十七年建立の小山寺楼門(岩瀬村)の棟…
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市指定有形文化財 宮山観音堂 平成十四年十一月十五日指定 宮山観音堂の創立は明らかでありませんが、江戸時代には鹿島神社の本地仏である十一面観音を祀り、とくに牛馬の安全を護る仏として崇敬されていました。明治の神仏分離によって所属していた無量院が廃寺になり、観音堂は鹿島神社の末社駒形神社となりました。現在の建物は享保八年(一七二三)上棟の棟札があって、様式手法上もその時の建立とみられます。大工棟梁は箱田村(現笠間市)の藤田孫平次で、同人は享保十七年建立の小山寺楼門(岩瀬村)の棟梁を務め、宝永八年(一七一一)建立の新勝寺三重塔(千葉県成田市)にも関わっています。 桁行(間口)三間、梁間(奥行)三間、寄棟造、向拝一間、茅葺(鉄板で覆う) 中規模の三間仏堂で、様式は和様(床・縁を設ける、長押を付ける、軒を平行垂木とするなど)と禅宗様(組物を詰組とするなど)が混ざり合っています。〔以下判読不能〕 筑西市教育委員会 ──── 宮山観音古墳(みややまかんのんこふん) 宮山観音古墳は、台畑・灯火山古墳とともに筑西市にある3つの前方後円墳のうちの1つです。 古墳の大きさは、次のとおりです。 全長 九二メートル 前方部 幅三〔判読不能〕メートル・高さ四メートル 後円部 直径四五メートル・高さ六メートル 築造は、5世紀早期と考えられています。 筑西市教育委員会
土塔山古墳(杉ノ木稲荷神社)[古墳]📜 式内社(比定候補)
📍 日本、〒300-4217 茨城県つくば市杉木297 2026-09-01
— 由緒板の原文(読めた字)土塔山古墳 全長六一・三m、高さ三・七mの前方後円墳。杉ノ木・漆所地内には多くの古墳が点在するが、その中でも最大かつ最古のものである。前方部が低くて長い特徴から、四世紀後葉〜五世紀前葉頃(古墳時代前期〜中期)の築造と考えられる。筑波山南麓では一世代に一基ずつ、大型古墳が造られている。この古墳もその一つに数えられるもので、地域に君臨した首長の墓である。 墳丘測量図 ※図は筑波大学発行『筑波古代地域史の研究』から転載。
一言主神社[神社]📜 式内社(比定候補)🏆 名神大社
📍 日本、〒303-0045 茨城県常総市大塚戸町875 2026-08-30
— 由緒板の原文(読めた字)一言主神社 この館に納めてある出土品は 神社の西北一、五〇〇米地先に あるこの地方最大の大塚戸古墳群 のうちの一つであり珍しい小口積 石棺である 今より千数百年前の古墳後期の もので縦三米横二十二米の前方後円式 昭和三十六年十月二日西宮男教諭指導 のもとに水海道中学校郷土クラブ員に より発掘し此処に復元したものである 思へば南方民族が当時すでに利根川 をさかのぼってこの地に安住し文化を もたらし神社の創立(平安時代 平城天皇 大同四年・西暦八〇九年) となったことが伺われる…
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一言主神社 この館に納めてある出土品は 神社の西北一、五〇〇米地先に あるこの地方最大の大塚戸古墳群 のうちの一つであり珍しい小口積 石棺である 今より千数百年前の古墳後期の もので縦三米横二十二米の前方後円式 昭和三十六年十月二日西宮男教諭指導 のもとに水海道中学校郷土クラブ員に より発掘し此処に復元したものである 思へば南方民族が当時すでに利根川 をさかのぼってこの地に安住し文化を もたらし神社の創立(平安時代 平城天皇 大同四年・西暦八〇九年) となったことが伺われる 此の館の建設目的は郷土の文化をたずねて その参考となる物を保存し往時をしのぶ 共にその歴史を後世に伝へんとするものである 皆様方の御協力をお願いします 社務所
八幡塚[古墳]
📍 日本、〒300-4353 茨城県つくば市沼田369 2026-08-17
— 由緒板の原文(読めた字)茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。 墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 〔判読不能〕は八…
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茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。 墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 〔判読不能〕は八幡池から出土したという。写真の人物埴輪〔判読不能〕 築造時期は主体部が未調査のため明確ではないが、墳丘出土の埴輪から、古墳時代後期、六世紀前葉頃と考えられている。〔判読不能〕有力な政治集団が成長、発展した時代である。そのため本古墳は当地方の国造だったとされる阿閉色命の墳墓との説もある。 なお西方約六〇mに横穴式石室を露出する円墳が所在している。 平成八年三月 つくば市教育委員会
権現塚古墳[古墳]
📍 日本、〒314-0114 茨城県神栖市日川4244 2026-08-16
— 由緒板の原文(読めた字)権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから古墳…
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権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから古墳時代前期に造られたと考えられます。後円部は遺体の埋葬施設であり、前方部は葬送儀礼(葬〔判読不能〕式)を行う場であるとともに、後円部への通路であったと思われます。現在市内に残っている唯一の前方後円墳です。〔以下判読不能〕 神栖市教育委員会