English

由緒大辞典

KAMI-LEGACY

土地の由緒を、種別・神仏・主題・地域から引く。
原文(由緒板の写し)と、AIの読みは分けて扱う。

84 由緒あり / 84 うち原文取得済み
種別 全て その他13 古墳9 城址1 18 神社40 遺跡3
主題 神仏習合9 山岳信仰6 鎮魂6 天神信仰5 前方後円5 横穴式石室5 律宗4 忍性4 筑波山4 阿弥陀信仰4 道祖神4 地蔵信仰3 磐座3 稲荷3
神仏 阿弥陀如来8 地蔵菩薩4 宇迦之御魂神3 菅原道真3 薬師如来2 火産霊神2 大国主命2 岐神(くなどのかみ)2 天鳥船神(あまのとりふねのかみ)2 住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)2 応神天皇(八幡神)2 稚産霊神2
▽ もっと(全92柱)
埴山姫命2 木花開耶姫命2 観音菩薩2 勢至菩薩2 一言主大神2 素戔嗚1 木花咲耶姫命1 不動明王1 弘法大師(遍照金剛)1 羽黒大神1 伊弉冉命1 愛宕神1 天照大神1 天穂日命1 別雷命1 於岐都説神(おきつせのかみ)1 雷大神(別雷神)1 須佐之男命(津島大神)1 菅原道真(天満宮)1 稲荷神(宇迦之御魂神)1 田の神1 牛頭天王(天王宮)1 少彦名命1 大己貴命1 宇気母知神(保食神)1 伊邪那岐命1 伊邪那美命1 市杵嶋姫命1 須佐之男命1 金山比古命1 八幡神1 天御鉾命1 イザナギノミコト1 天御中主神1 国常立尊1 筑波男神(伊弉諾尊)1 筑波女神(伊弉冉尊)1 弥勒菩薩1 鹿島明神(武甕槌)1 白鳥明神1 弁天1 天照皇大神1 伊弉諾尊1 伊弉冉尊1 六神(六祖神霊)の荒御魂1 司官御霊1 蔵王権現1 志那都比売神1 中筒男神1 志那都比古神1 猿田比古神1 木花咲耶姫神1 武甕槌命1 建御名方命1 事代主命1 毗那良珠命1 天神(天神社)1 道祖神1 大山咋神1 道祖神(塞の神)1 猿田彦命1 日本武尊1 毘沙門天(多聞天)1 波切不動明王1 弘法大師1 天満大自在天神1 稲荷尊1 大弁財天1 熊野権現1 馬頭観音1 清龍権現1 素戔嗚尊1 イワナガヒメ(磐長姫)1 がま大権現(光誉上人)1 十一面観音1 六道能化地蔵菩薩1 三宝荒神1 大山祇命1 積羽八重事代主神1 市杵島姫命1
並び 新しい順 社名 地域

84件 (21–40 を表示)

一言主神社(大塚戸)[神社]
📍 日本、〒303-0045 茨城県常総市大塚戸町875 2026-08-30
— 由緒板の原文(読めた字)樹木名 マテバシイ 西暦1550年(473年前)兵乱によって楼門を失ったさい マテバシイの木も消失しましたが 当時を忍びながら 現在も鬱蒼と繁っております。 (2023年)
大生郷天満宮[神社]📜 式内社
📍 日本、〒300-2521 茨城県常総市大生郷町1236 2026-08-30
— 由緒板の原文(読めた字)親鸞上人礼拝の杉 この古木は、浄土真宗(一向宗)の南祖親鸞上人が布教巡錫の途中、当天満宮に参拝された折、お手植された杉であると伝えられる。 樹齢約七百年の大木であったが、明治三十五年の台風によって幹半ばで折れてしまった。更に、大正八年の社殿炎上の際類焼した。今もその焼け跡がみえる。 右側の小木は、その大火後に植えられたものであったが、昭和六十年に枯死した。両木とも、従来は拝殿の直前に聳え立ち、御神木として崇められてきた。今度、境内整備事業の一環として、現在地に移植し、覆屋を…
▽ 原文をすべて読む
親鸞上人礼拝の杉 この古木は、浄土真宗(一向宗)の南祖親鸞上人が布教巡錫の途中、当天満宮に参拝された折、お手植された杉であると伝えられる。 樹齢約七百年の大木であったが、明治三十五年の台風によって幹半ばで折れてしまった。更に、大正八年の社殿炎上の際類焼した。今もその焼け跡がみえる。 右側の小木は、その大火後に植えられたものであったが、昭和六十年に枯死した。両木とも、従来は拝殿の直前に聳え立ち、御神木として崇められてきた。今度、境内整備事業の一環として、現在地に移植し、覆屋を建て、永久保存を図る。 昭和六十三年十月吉日
報恩寺[寺]
📍 日本、〒303-0041 茨城県常総市豊岡町丙1587 2026-08-30
— 由緒板の原文(読めた字)報 恩 寺 報恩寺は、鎌倉時代の建保二年(一二二四)、浄土真宗開祖親鸞聖人二十四輩の第一弟子性信坊が、聖人の命によって下総国岡田郡横曽根(現在の常総市豊岡町横曽根)にあった真言宗の廃寺を再興し、念仏道場を開いたことに始まる真宗大谷派の寺院である。 性信坊は、親鸞聖人の越後流罪(旧仏教による専修念仏教団弾圧の際、法然に連座して京都から越後=新潟県に配流)に従い、また聖人の二十余年にわたる関東での教化活動にも随伴した高弟で、貞永元年(一二三二)京都に帰る聖人の命により東国での…
▽ 原文をすべて読む
報 恩 寺 報恩寺は、鎌倉時代の建保二年(一二二四)、浄土真宗開祖親鸞聖人二十四輩の第一弟子性信坊が、聖人の命によって下総国岡田郡横曽根(現在の常総市豊岡町横曽根)にあった真言宗の廃寺を再興し、念仏道場を開いたことに始まる真宗大谷派の寺院である。 性信坊は、親鸞聖人の越後流罪(旧仏教による専修念仏教団弾圧の際、法然に連座して京都から越後=新潟県に配流)に従い、また聖人の二十余年にわたる関東での教化活動にも随伴した高弟で、貞永元年(一二三二)京都に帰る聖人の命により東国での教化布教のため、この地に留まった。その時、性信坊は聖人直筆の「教行信証」を載いた。性信坊の徳を伝え聞き、教えを乞う人々で門前は市をなしたと言われる。それは後に国宝に指定されている。 しかし、戦国時代の兵火によって堂塔はことごとく焼失し、報恩寺は江戸に移された。その後この地に再建されるが、現在の本堂は文化三年(一八〇六)に造営されたものである。 当寺には「お鯉さま」の説話が残されている。性信上人の法話の座にいつも白髪の老人の姿があった。この老人の正体を探ろうとしたが、老人の姿はいつも飯沼のほとりで消えてしまった。その後、飯沼の天神社(大生郷天満宮)の神主の夢枕に白髪の老人=天神(菅原道真公)が現れ「性信の聖は、我が心の悩みを解いた恩師、毎年正月には御手洗の池の鯉を二尾贈るように」と告げた。天福元年(一二三三)のことであった。爾来、正月十日に天満宮から二尾の「お鯉さま」が贈られたという。 大生郷天満宮から贈られた「お鯉さま」は、報恩寺に納められたのち、東京浅草の報恩寺に送られ、十二日、四条流(宮中で用いる膳部料理の流儀)の儀式にのっとった「俎開き」が古式豊かに執り行われる。という行事は連綿と続けられ、現在にいたっている。 常総市観光物産協会 常総市教育委員会
旧息栖神社跡(元息栖)[神社]🏛 国史見在社
📍 日本、〒314-0114 茨城県神栖市日川4199−3 2026-08-29
— 由緒板の原文(読めた字)息栖神社の歴史 現在の息栖神社は、その昔、日川に鎮座していました祠を、大同二年(八〇七年)、右大臣藤原内麻呂が勅命に依り現在地の息栖に遷座したと伝承されております。日川地区に鎮座していた当時の息栖神社が、なんという名で呼ばれていたかについては確かではありませんが史書「三代実録」には、仁和元年(八八五年)「於岐都説神(おきつせのかみ)従五位下を授けられる」と記されており、これが旧息栖神社のことではないかと推定されています。 この祭神の名称からは、川の中州、水辺に位置する神社…
▽ 原文をすべて読む
息栖神社の歴史 現在の息栖神社は、その昔、日川に鎮座していました祠を、大同二年(八〇七年)、右大臣藤原内麻呂が勅命に依り現在地の息栖に遷座したと伝承されております。日川地区に鎮座していた当時の息栖神社が、なんという名で呼ばれていたかについては確かではありませんが史書「三代実録」には、仁和元年(八八五年)「於岐都説神(おきつせのかみ)従五位下を授けられる」と記されており、これが旧息栖神社のことではないかと推定されています。 この祭神の名称からは、川の中州、水辺に位置する神社という印象が想起されますが、このことは、祭神が岐神(くなどのかみ)天鳥船神(あまのとりふねのかみ)、住吉三神(上筒男神、中筒男神、底筒男神)という、海にまつわる神々であることに結びつきます。事実、日川地区内の遺跡からは平安時代の遺物等が発見されており、この神社を祀り、水上交通の安全を祈願したと思われる人々が居住していたことが確認されています。 息栖神社は、鹿島神宮、香取神宮と共に、東国三社の一つに称され、歴史の古い由緒ある社として、御神威は広く関東、東北一円にわたり地域住民からも地区の氏神として崇敬されています。 令和三年三月 神栖市教育委員会
多気太郎義幹之墓[古墳]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条290−2 2026-08-29
— 由緒板の原文(読めた字)多気太郎義幹之墓 多気太郎義幹は桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より三代高望王より平氏を称し、四代良望は常陸大掾に任ぜられ、平国香と名乗る。高望王より数えて十一代に当る。 六代維幹は水守より多気城(現北条城山)に移り初代城主となるが、直系子孫は常陸平氏の本家とされる。維幹より六代目の城主が多気太郎義幹である。名君の誉れ高く領民のため無量院裏池及び現在町内を流れる通称裏堀を開削し、水利に多大の貢献を果している。 しかるに源頼朝の全国支配が進展するにつれ、義幹の支配下…
▽ 原文をすべて読む
多気太郎義幹之墓 多気太郎義幹は桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より三代高望王より平氏を称し、四代良望は常陸大掾に任ぜられ、平国香と名乗る。高望王より数えて十一代に当る。 六代維幹は水守より多気城(現北条城山)に移り初代城主となるが、直系子孫は常陸平氏の本家とされる。維幹より六代目の城主が多気太郎義幹である。名君の誉れ高く領民のため無量院裏池及び現在町内を流れる通称裏堀を開削し、水利に多大の貢献を果している。 しかるに源頼朝の全国支配が進展するにつれ、義幹の支配下にある小田の地に八田知家が進出するにつれ、両者の確執が惹起、建久四年頼朝の富士の巻狩りにかかわる曽我兄弟の討ち入りに関し、義幹は知家の讒に身を駿河国に預けられ、あい領地はただちに没収され、当地にて歿した。歿日は七月六日と十五日の二説があり、遺臣等義幹の遺徳を偲び霊骸を迎えて当地に葬り、以って英魂の安慰を奉り今日に至っている。 なお無量院は義幹の建立になり、のち時宗四代呑海上人が当地を遊行のみぎり、無量院殿等阿弥陀佛の戒名を追贈している。
旧息栖神社(元息栖)[神社]🏛 国史見在社
📍 日本、〒314-0114 茨城県神栖市日川4199−3 2026-08-29
— 由緒板の原文(読めた字)息栖神社の歴史 現在の息栖神社は、その昔、日川に鎮座していました祠を、大同二年(八〇七年)、右大臣藤原内麿が勅命に依り現在地の息栖に遷座したと伝承されております。日川地区に鎮座していた当時の息栖神社が、なんという名で呼ばれていたかについては確かではありませんが史書「三代実録」には、仁和元年(八八五年)「於岐都説神(おきつせのかみ)従五位下を授けられる」と記されており、これが旧息栖神社のことではないかと推定されています。 この祭神の名称からは、川の中州、水辺に位置する神社と…
▽ 原文をすべて読む
息栖神社の歴史 現在の息栖神社は、その昔、日川に鎮座していました祠を、大同二年(八〇七年)、右大臣藤原内麿が勅命に依り現在地の息栖に遷座したと伝承されております。日川地区に鎮座していた当時の息栖神社が、なんという名で呼ばれていたかについては確かではありませんが史書「三代実録」には、仁和元年(八八五年)「於岐都説神(おきつせのかみ)従五位下を授けられる」と記されており、これが旧息栖神社のことではないかと推定されています。 この祭神の名称からは、川の中州、水辺に位置する神社という印象が想起されますが、このことは、祭神が岐神(くなどのかみ)天鳥船神(あまのとりふねのかみ)、住吉三神(上筒男神、中筒男神、底筒男神)という、海にまつわる神々であることに結びつきます。事実、日川地区内の遺跡からは平安時代の遺物等が発見されており、この神社を祀り、水上交通の安全を祈願したと思われる人々が居住していたことが確認されています。 息栖神社は、鹿島神宮、香取神宮と共に、東国三社の一つに称され、歴史の古い由緒ある社として、御神威は広く関東、東北一円にわたり地域住民からも地区の氏神として崇敬されています。 令和三年三月 神栖市教育委員会
薬師堂[寺]
📍 日本、〒300-4214 茨城県つくば市山口1844 2026-08-28
— 由緒板の原文(読めた字)薬師堂屋根 改修寄進者芳名 平成六年十一月 一般寄付 金壱萬円也 金参萬円也 鴻巣久 中山忠 小林哲夫 金弐萬円也 小松崎ちい 荒井章 坂寄三郎 大熊政 佐藤秀一 坂野友弥 佐藤文子 高根澤善右門 杉山定市 中山隆司 杉山吉男 吉沼博 杉山義〔判読不能〕
馬頭観音石碑群[その他]
📍 日本、〒300-4214 茨城県つくば市山口1864−1 2026-08-28
— 由緒板の原文(読めた字)馬頭觀世音〔以下判読不能〕
泉谷山 寳安土寺[寺]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条416 2026-08-28
— 由緒板の原文(読めた字)泉谷山 寶安土寺 不許葷酒入山門 獻納 〔忠魂碑〕不朽 忠魂碑 〔碑側面・建立銘 判読不能〕
川村天満宮[神社]📜 式内社
📍 日本、〒300-4214 茨城県つくば市山口913 2026-08-27
— 由緒板の原文(読めた字)川村天満宮 天満宮 西〔判読不能〕之寺 不殺生界 結界石 川村家
平沢官衙遺跡[遺跡]
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢736 2026-08-26
— 由緒板の原文(読めた字)一号建物(第一九号建物跡) 遺跡中央部のⅢ期建物の中でもっとも面積が狭い。 古代の文献により、校木を井桁状に組み上げる校倉は、郡衙正倉では中規模以下の倉におおいことが判明している。また、校倉は柱がないため軒先が下がりやすい。ここでは、外周柱穴列を屋根支柱と推定して、校倉で復元した。屋根は校倉建物におおい寄棟としてある。復元に際しては、奈良県の東大寺や唐招提寺に現存する奈良時代の校倉を参考にした。 寄棟・目板打ち厚板流れ葺 二号建物(第一八号建物跡) 本遺跡で最大級のⅢ期の建…
▽ 原文をすべて読む
一号建物(第一九号建物跡) 遺跡中央部のⅢ期建物の中でもっとも面積が狭い。 古代の文献により、校木を井桁状に組み上げる校倉は、郡衙正倉では中規模以下の倉におおいことが判明している。また、校倉は柱がないため軒先が下がりやすい。ここでは、外周柱穴列を屋根支柱と推定して、校倉で復元した。屋根は校倉建物におおい寄棟としてある。復元に際しては、奈良県の東大寺や唐招提寺に現存する奈良時代の校倉を参考にした。 寄棟・目板打ち厚板流れ葺 二号建物(第一八号建物跡) 本遺跡で最大級のⅢ期の建物。 古代の文献により、郡衙において中心的で巨大な正倉は法倉と呼ばれ、土壁構造が多かったと推定されることから、土倉で復元した。現存する古代の土壁の倉として奈良県の法隆寺綱封蔵を参考にしたが、遺跡東南隅のⅡ期52・53号が双倉になる可能性があるため、同蔵と同じ双倉構造とした。屋根は本遺跡の瓦出土量が少なく、瓦葺建物は考えにくいので、茅葺にした。 寄棟・茅葺 三号建物(第三三号建物跡) 2号建物とともに本遺跡で最大級のⅢ期の建物。 発掘調査で発見される掘立柱建物は、1柱穴1柱がふつうだが、本建物では側柱穴に2本の柱痕跡が見つかった。これは、1本は床上まで伸びて桁・梁を支える通し柱、もう1本は床を支える添束(柱)と考えられるため、柱のあいだに板壁を落とし込む板倉で復元した。屋根は軒の出が短い切妻とした。古代の文献では、郡衙正倉はこの板倉がもっとも多い。 切妻・栩板葺
平沢三号墳[古墳]
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢629−1 2026-08-26
— 由緒板の原文(読めた字)平沢三号墳 四基が現存する平沢古墳群の一つで、通称前島岩屋という。一辺約一九mの方墳で、南側に横穴式石室が開口する。発掘調査では、七世紀中葉〜後半頃(古墳時代終末期)の鉄鏃(矢じり)や須恵器が出土した。また、石室の前で八世紀前葉頃(奈良時代)の火葬墓も検出された。当時の火葬は有力者や役人に広がった風習で、古墳と古代筑波郡役所跡である平沢官衙遺跡との深い関係を示している。江戸時代には一字一石経塚として再利用され、信仰された。 須恵器骨蔵器・蓋の出土状況
熊野神社[神社]📜 式内社(比定候補)
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条387 2026-08-25
— 由緒板の原文(読めた字)熊野神社 祭神 イザナギノミコト 祭祀 毎年二月十五日が例祭であったが、今は行われていない。 由緒 鎌倉時代の創建、あるいは至徳元(一三八四)年に後小松天皇の創建といわれるが、明らかではない。筑波山麓の地一帯には古くから熊野信仰が盛んであり、紀州(和歌山県)熊野の修験者は小田氏を初めとするこの地の有力武士の帰依を得ていた。そのような縁由から、当社が祀られるに至ったかと推測される。隣接する全宗寺は山号を熊野山といい、長らく当社の別当寺であった。一説に全宗は熊野修験者の名前…
▽ 原文をすべて読む
熊野神社 祭神 イザナギノミコト 祭祀 毎年二月十五日が例祭であったが、今は行われていない。 由緒 鎌倉時代の創建、あるいは至徳元(一三八四)年に後小松天皇の創建といわれるが、明らかではない。筑波山麓の地一帯には古くから熊野信仰が盛んであり、紀州(和歌山県)熊野の修験者は小田氏を初めとするこの地の有力武士の帰依を得ていた。そのような縁由から、当社が祀られるに至ったかと推測される。隣接する全宗寺は山号を熊野山といい、長らく当社の別当寺であった。一説に全宗は熊野修験者の名前であるといわれている。 風習 紀州熊野山は死者の霊魂が宿るところとして考えられているが、当社においてもその信仰があり、四十九日の法要の際に、「山登り」と称して、当社の裏山に登り、杖と草鞋を供える風習があった。 施設 本殿は流造りで、江戸後期の建築。参道入口の鳥居は寛永十三(一六三六)年に建てられたもので、市内で最も古い鳥居である。 街づくり委員会
毘沙門天種子板碑[その他]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条404−6 2026-08-25
— 由緒板の原文(読めた字)つくば市指定 工芸品 毘沙門天種子板碑 昭和五十四年一月二十三日指定 毘沙門天は北方の守護神として尊崇され、四天王の中では持国天・増長天・広目天と並んで、多聞天の名でよく知られている。また密教では福徳財富の神として崇拝され、そのため近世には、七福神の一つに数えられて広く庶民の信仰するところとなった。 その像容は甲冑を着け、右手に宝棒を持ち、左手に宝塔をかかげるのが通例である。 本碑は毘沙門天のお姿そのものを彫ったものではなく、その種子(密教で仏や菩薩の持物を標示する古代イン…
▽ 原文をすべて読む
つくば市指定 工芸品 毘沙門天種子板碑 昭和五十四年一月二十三日指定 毘沙門天は北方の守護神として尊崇され、四天王の中では持国天・増長天・広目天と並んで、多聞天の名でよく知られている。また密教では福徳財富の神として崇拝され、そのため近世には、七福神の一つに数えられて広く庶民の信仰するところとなった。 その像容は甲冑を着け、右手に宝棒を持ち、左手に宝塔をかかげるのが通例である。 本碑は毘沙門天のお姿そのものを彫ったものではなく、その種子(密教で仏や菩薩の持物を標示する古代インドの文字)を彫出し、上部に毘沙門天の持物の宝塔を刻するものである。 毘沙門天の種子はベイシラマンダヤといい、この種子を巧みに形象化し、その流麗な整った書体は美事である。上部の宝塔も基礎低く、仰蓮の上に形の整った塔身を安置する。笠は軒反りがゆるやかな弧を描き、九輪の一輪一輪を円弧で彫出するなど、細部にまで意を用いる。塔身の種子はタラークであり、これは宝塔に内蔵する如意宝珠をあらわしている。 製作年代は鎌倉時代と思われ、工芸史からみても当代の傑作といえるだろう。 雲母片岩、高二七〇cm、幅八二cm、厚一四cm 平成二年十二月設置。平成二十四年九月竜巻被災から復旧。 つくば市教育委員会
日向廃寺跡[遺跡]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条17−2 2026-08-25
— 由緒板の原文(読めた字)つくば市指定 史跡 日向廃寺跡 昭和六十二年(一九八七年)七月九日指定 この地は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての寺院跡で、現在の地名をとって日向廃寺跡と呼んでいる。建物跡は中央堂を中心に東西に回廊をもつ阿弥陀堂建築で、京都の宇治平等院鳳凰堂に似た全国的にも珍しい寺院跡である。 建物跡は中央に東西三間、南北四間の仏堂があり、そこから複廊が東西に伸び、その先端から単廊が南につき出ている。中央堂では花こう岩製の柱座造り出しを有するものがまじっているが、礎石は筑波変成岩類が主…
▽ 原文をすべて読む
つくば市指定 史跡 日向廃寺跡 昭和六十二年(一九八七年)七月九日指定 この地は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての寺院跡で、現在の地名をとって日向廃寺跡と呼んでいる。建物跡は中央堂を中心に東西に回廊をもつ阿弥陀堂建築で、京都の宇治平等院鳳凰堂に似た全国的にも珍しい寺院跡である。 建物跡は中央に東西三間、南北四間の仏堂があり、そこから複廊が東西に伸び、その先端から単廊が南につき出ている。中央堂では花こう岩製の柱座造り出しを有するものがまじっているが、礎石は筑波変成岩類が主である。 この建物は火災で焼失したようだが、その後規模を縮小して東西三間、南北四間の小堂が再建された形跡がある。 出土した瓦は巴文軒丸瓦、剣頭文軒平瓦などであり、その様式から十二世紀後半に位置付けられる。 当時、茨城県南地方に勢力を持っていたのは常陸平氏の多気氏である。多気氏の本拠はこ北条にあった。付近には多気氏第六代義幹の墓と伝えられる五輪塔がある。恐らくこの日向廃寺も多気氏によって造営されたものであろう。 巴文軒丸瓦 剣頭文軒平瓦 調査時写真(東から) 日向廃寺跡平面・断面図 建物規模(礎石の心心間) 中央堂東西長 9.18m 中央堂南北長 9.79m 西複廊部東西長 12.54m 西複廊部南北巾 4.89m 西単廊部南北長 16.67m 西単廊部東西巾 3.67m 平成元年(一九八九年)十二月 令和四年(二〇二二年)三月改修 つくば市教育委員会
熊野山弥勒院全宗寺[寺]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条381 2026-08-25
— 由緒板の原文(読めた字)不動堂建立記念碑 当山は今より七百有余年の昔、人皇第百代後小松天皇の勅願寺として創建されて以来、脈々と真言密教の法灯を受け継ぎ、今日に伝えて参りました。 かつては、近郷の信仰を集め、古刹として知られ、隆盛を誇っておりましたが、百数十年前に火災のため本堂を焼失したと伝えられております。その際、消失を免れたのが、本尊・波切不動明王のお掛け軸でございます。 当寺の不動堂には、ご本尊様を安置しておりましたが、近年建物の傷みが激しく、風雨を凌ぐのがやっとの状態であります。護摩堂としても…
▽ 原文をすべて読む
不動堂建立記念碑 当山は今より七百有余年の昔、人皇第百代後小松天皇の勅願寺として創建されて以来、脈々と真言密教の法灯を受け継ぎ、今日に伝えて参りました。 かつては、近郷の信仰を集め、古刹として知られ、隆盛を誇っておりましたが、百数十年前に火災のため本堂を焼失したと伝えられております。その際、消失を免れたのが、本尊・波切不動明王のお掛け軸でございます。 当寺の不動堂には、ご本尊様を安置しておりましたが、近年建物の傷みが激しく、風雨を凌ぐのがやっとの状態であります。護摩堂としても使われていることから、今後の寺院活動等を考慮し、平成十七年に不動堂建立を発願いたしました。 平成二十二年十二月吉祥日
無量院[寺]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条375 2026-08-25
— 由緒板の原文(読めた字)無量院本堂再建記念碑 そもそも無量院の濫觴をたずぬるに、当山は建久元(一一九〇)年十一月、多気山城主常陸大掾多気太郎平義幹公、鎌倉右大将上洛に際し随兵として京師を観て後、祖宗報恩のため一寺を道場山に建立し、西山の道場梅松山無量寿院光明寺と号し〔以下判読不能〕 建久四年義幹公〔判読不能〕庶民のために〔判読不能〕小田城主八田知家〔判読不能〕馬場資幹に改付せらる〔判読不能〕遂に入れられずして駿河の地に憤死せらる〔判読不能〕 〔判読不能〕天台宗を時宗となし〔判読不能〕 正中年中(一…
▽ 原文をすべて読む
無量院本堂再建記念碑 そもそも無量院の濫觴をたずぬるに、当山は建久元(一一九〇)年十一月、多気山城主常陸大掾多気太郎平義幹公、鎌倉右大将上洛に際し随兵として京師を観て後、祖宗報恩のため一寺を道場山に建立し、西山の道場梅松山無量寿院光明寺と号し〔以下判読不能〕 建久四年義幹公〔判読不能〕庶民のために〔判読不能〕小田城主八田知家〔判読不能〕馬場資幹に改付せらる〔判読不能〕遂に入れられずして駿河の地に憤死せらる〔判読不能〕 〔判読不能〕天台宗を時宗となし〔判読不能〕 正中年中(一三二四〜二五)当宗四代呑海大和尚〔判読不能〕当山の鎮守として天満大自在天神・稲荷尊・大弁財天・熊野権現を勧請し〔判読不能〕塔頭甘露院のほか末寺一寺を建立し〔判読不能〕 旧本堂 建立成就 当山三十二世東因和尚 再建発願 当山三十三世察道和尚 享保十二(一七二七)年二月二十九日 当山五十一世敬道和尚の記録 大正六(一九一七)年茅葺き本堂屋根を瓦葺きとす。昭和十三(一九三八)年六月大豪雨 同年九月大台風により本堂大破のため修復工事。 新本堂 建立成就 当山五十三世朝海和尚 平成十六(二〇〇四)年十一月六日落慶 〔判読不能〕二〇〇〇年十月、建立以来二七〇余年の風雪に耐えし堂宇の再建を決議す。完成まで満四年の歳月を要せり。
高道祖神社[神社]
📍 日本、〒304-0031 茨城県下妻市高道祖304 0031 2026-08-24
— 由緒板の原文(読めた字)高道祖神社 征清紀念碑 平和塔 日露戦役紀念碑 大東亜戦〔判読不能〕紀念碑 奉納
日本武尊神社[神社]
📍 日本、〒300-4533 茨城県筑西市成井341 2026-08-24
— 由緒板の原文(読めた字)日本武尊神社 奉齋 〔以下判読不能〕 (境内碑)馬頭
常願寺[寺]
📍 日本、〒304-0031 茨城県下妻市高道祖304 0031 2026-08-24
— 由緒板の原文(読めた字)県指定文化財 彫刻 金銅 阿弥陀如来三尊像 3躯 指定年月日 昭和37年2月26日 所在地 下妻市大字高道祖 管理者 常願寺 本尊(中尊) 阿弥陀如来 金銅製 高さ 44.2センチメートル 脇待 観音 〃 〃 29.9センチメートル 勢至 〃 〃 29.7センチメートル 常願寺は真言宗豊山派の寺。号は慈国山阿弥陀院。本堂に本尊として安置されている。古来雨ごいの阿弥陀三尊として名高い。 典型的な善光寺式三尊像である。中尊台座は当初のものが残るが、脇待台座は失われ光背も後補。とも…
▽ 原文をすべて読む
県指定文化財 彫刻 金銅 阿弥陀如来三尊像 3躯 指定年月日 昭和37年2月26日 所在地 下妻市大字高道祖 管理者 常願寺 本尊(中尊) 阿弥陀如来 金銅製 高さ 44.2センチメートル 脇待 観音 〃 〃 29.9センチメートル 勢至 〃 〃 29.7センチメートル 常願寺は真言宗豊山派の寺。号は慈国山阿弥陀院。本堂に本尊として安置されている。古来雨ごいの阿弥陀三尊として名高い。 典型的な善光寺式三尊像である。中尊台座は当初のものが残るが、脇待台座は失われ光背も後補。ともに頭、体部を一鋳に作り、中尊両手首、脇待両肩先を蟻柄差しとする。鋳技優れ美麗な像容であるが、表現はやや硬い。 製作年代は室町時代に入ると思われる。1864(元治1)年天狗党の兵火により、堂宇、古文書などすべて焼失したが、当時の住職宥雅和尚の機転により難をまぬがれたという。 平成3年3月 下妻市教育委員会