大塚原古墳[古墳]
📍 日本、〒289-2533 千葉県旭市大塚原1177 2026-08-16
— 由緒板の原文(読めた字)旭市指定史跡
大塚原古墳
昭和五十二年一月二十五日指定
近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。
伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を父「中臣英勝」らの出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。
妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿…
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旭市指定史跡
大塚原古墳
昭和五十二年一月二十五日指定
近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。
伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を父「中臣英勝」らの出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。
妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿の海近くで亡き妃を偲びつつ農耕生活を送ったという。後に浪荒い海岸からここ大塚原に改葬し、その霊を慰めるため近くに内裏神社を創建したという。
このことは長い間、村人たちによって語り伝えられ尊崇され、内裏神社では三十三年ごとに大祭を行ない、最近では平成十五年に大祭が盛大に行われた。
明治二十四年、風雨で墳丘が崩壊した時に、従者中臣英勝の名を刻んだ石板、及び人骨、数点の土器類が出土したが、その時は学問的調査もされず埋め戻された。
昭和四十六年十一月、改めて大塚原古墳の整備を行ない、その際、出土した甕の中からいくつかの人骨を発見した。千葉県教育委員会、旭市教育委員会、大塚原、泉川、川口の地元関係区、内裏神社氏子などによって、人骨を新潟大学医学部に鑑定を依頼した。その結果、〔判読不能〕体数、性別など明確でなかったが、中に高貴の人の埋葬に使用したと思われる朱の付いた細い骨片が発見された。
長い間の伝承と石板、及び出土人骨の朱から、ここは弘文天皇妃耳面刀自媛や従者中臣英勝らを埋葬した墳墓と考えられ、『弘文天皇妃耳面刀自媛之陵墓』とした。
令和元年七月
旭市教育委員会