宮山観音堂|古墳の丘に祀られた、鹿島の本地仏

茨城県
宮山観音堂

まず、足の下を読む。この観音堂が立つのは、ただの高台ではない。全長九十二メートル、後円部の直径四十五メートル、5世紀早期に築かれたと考えられる前方後円墳——宮山観音古墳の、その頂だ。六枚目の写真に写る、杉と照葉樹に覆われた土の高まりこそが、古い墓である。説明板は被葬者を明かさない。

その重なりが、この場所の核心だ。江戸期、この丘の頂には十一面観音が祀られた。板が言い切るとおり、それは近在の鹿島神社の「本地仏」であった。本地垂迹——仏が仮に神の姿をとって現れる、という中世以来の思想である(source=伝承)。鹿島の神は建御雷神。その荒々しい武の神の「本地」として、慈悲の観音が座す——ここに、この土地の多声が畳まれている。奪う神と、赦す仏が、同じ一柱として拝まれていた。

しかも、この観音は牛馬の守りとして崇敬されたと板は記す。ここが土地に錨を下ろす一点だ。水はけのよい関東ローム台地は、稲より畑作と馬の放牧に向く。人は牛馬を使って畑を起こし、荷を運んだ。だから鹿島の武神の本地仏は、この農の丘では「牛馬安全の仏」として親しまれた。神話の剣が、畑の畦道の祈りに翻訳されたのだ。

享保八年(一七二三)、この堂は建て直された。棟梁は箱田村(現笠間市)の藤田孫平次。成田山新勝寺の三重塔にも関わった腕の職人だと板は誇る。三間四方、寄棟、向拝一間の堂に、和様と禅宗様が入り混じる——写真三枚目の、龍や獅子が絡む向拝の彫刻、内部欄間の七福神、馬の彫物。板は「馬の彫物がみられるのは珍しい」と言い添える。牛馬の丘に、馬を刻んだ。名より所作が、信仰の古層を語っている。

そして明治。神仏分離の令が、神と仏を引き裂いた。所属した無量院は廃寺となり、観音堂は鹿島神社の末社「駒形神社」——馬の神の社——へと姿を変えた。仏を捨てさせ、神に一本化する国家の力が、この丘にも及んだのだ。だが土地の人は観音を手放さなかった。いまふたたび扁額には「観音堂」と掲げられ(写真三枚目)、常陸西国三十三観音霊場の一番札所として、御詠歌とともに巡礼を迎えている。名を変えさせられ、それでも祀り続けられた——それが、この丘の返事だ。

この一つの丘に、いくつもの層が成している。墓は土となって残り、観音は再び堂に座り、馬の彫物は軒下で今日も駆けている。

記録した写真

📍 36.257278, 140.048400(日本、〒300-4504 茨城県筑西市宮山500−4)



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