
まず、足もとの水を思え。三島という土地は、富士がその身に降らせた雪と雨を、幾十年もかけて溶岩層の奥へ通し、この扇状地の端で一斉に噴き上げさせる。市街のそこかしこに清冽な湧水が湧き、街そのものが水の上に浮いているような土地だ。古代の人が「御島(みしま)」と呼び、伊豆の島々——海に浮かぶ火の山の連なり——を遥拝したこの地に社が置かれたのは、偶然ではない。ここは山の火と海の水が交わる結界であり、だからこそ伊豆国の一宮として、都から下る東海道の旅人が最初に手を合わせる場となった。
その主祭神が、大山祇命と積羽八重事代主神である(源は伝承・一般に知られる縁起)。大山祇は山を統べ、火山島を生む力の神——伊豆の火と海に、これほど似合う神はいない。もう一柱、事代主は、記紀の国譲り神話で決定的な役を担う。天つ神が葦原中国を「譲れ」と迫ったとき、父・大国主は「我が子・事代主に問え」と答えた。海で釣りをしていた事代主は、抗わず、船を踏み傾け青柴垣に姿を隠して退いた——戦わずに、国を明け渡したのだ。勝者の書いた記紀は、それを「潔い服従」として描く。だが退いた者の側に立てば、それは自らの海と土地を、来訪した力へ引き渡した沈黙の別れでもある。三嶋大社が漁業・商売繁盛の恵比須信仰と重なるのも、この事代主が釣りをする神であったこと、そして退いた神がなお人々に恵みを約束し続けたことの、長い残響だ。譲った神を、退けたまま捨てるのではなく、東海道の要にこれほど大きく祀り上げる——そこに、この国の作法がある。
そして時代は下り、幕末へ。木の説明板が語るのは、神話ではなく一人の人間の物語だ。嘉永七年(一八五四)十一月、安政の東海大地震が社殿を打ち倒した。神主・矢田部式部盛治は、十年の歳月と壱万六千六百七十七両という気の遠くなる巨費を投じて、これを見事に復興させた(source=看板)。それだけではない。祇園山の腹にトンネルを穿ち、上流から水を引き、祇園原の荒地十五町歩余りを美田に変えた。火山の湧水の土地で、水を「祀る」だけでなく「治め」「配る」——神職でありながら土木の指揮者であった男の像が、いま社殿を背に立つ。台座には「矢田部盛治大人」と刻まれ、文化勲章の彫刻家・澤田政廣の手で、昭和二十九年、住民の感謝敬慕により建てられた。忘れてはならない——彼は神ではない。人である。由緒に名を残す神主を神格化せず、しかし敬うべき恩人として、この境内は像を抱いている。
〈土地の恵み〉この清らかな湧水は、味にも結晶する。三島は良質な地下水で育つ鰻(うなぎ)の町として知られ、澄んだ水で身を締めた蒲焼は名物だ——火山が水を磨き、水が食を磨く。地形が恵みを生む、その一筋の証である。
【この地の因縁——あなたとこの場所のストーリー】天を司り、充実と威厳をもって人を導く——そんな星のもとにあるあなたに、この境内はふたつの「導く者」の姿を差し出す。ひとつは、戦わずして国を譲った事代主。退くこともまた、大きな器を持つ者にしかできぬ決断だという静かな理を、この神は千数百年、青柴垣の向こうから語り続けている。もうひとつは、崩れた社を十年かけて建て直し、荒地に水を通した矢田部盛治。巨費を背負い、山に穴を掘り、人々の暮らしを立て直した——その姿は、まさに前に立って重荷を負う者のかたちだ。威厳とは押し通す力ではなく、崩れたものを黙って積み直す粘りかもしれない。導く立場にあるとき、進むべき時と、事代主のように退いて次代へ委ねるべき時がある。その見極めが、あなたには特に響くかもしれない。湧水の街の、退いた神と再興の人の膝下で、静かにそう問うてみてほしい。
記録した写真

📍 35.121569, 138.918853(日本、〒411-0035 静岡県三島市大宮町2丁目1)
物語と写真 © KAMI-LEGACY(achoo合同会社)。説明板の原文は各社寺のものです。
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