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Dictionary of Origins

KAMI-LEGACY

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Type All Other19 Kofun (burial mound)9 Castle ruins4 Temple26 Shrine42 Archaeological site3
Motif 神仏習合10 山岳信仰9 忍性6 鎮魂6 弘法大師5 天神信仰5 前方後円5 横穴式石室5 修験道5 律宗4 水運4 阿弥陀信仰4 八幡信仰4 養蚕4
Deity 阿弥陀如来6 一言主大神4 地蔵菩薩3 薬師如来3 大国主命3 宇迦之御魂神3 菅原道真3 観音菩薩3 勢至菩薩3 飯縄大権現3 素戔嗚尊2 不動明王2
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愛宕神2 住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)2 大日如来2 埴山姫命2 木花開耶姫命2 天照皇大神2 弘法大師(空海)2 木花咲耶姫命1 観世音菩薩1 弘法大師(遍照金剛)1 宇迦之御魂命1 仁王(金剛力士)1 羽黒大神1 伊弉冉命1 火産霊神1 宇迦之御魂神(稲荷神)1 愛宕神(火防の神)1 天照大御神1 天穂日命1 別雷命1 岐神(久那斗神/於岐都説神)1 天鳥船神1 雷大神1 須佐之男命(津島大神)1 天満宮1 稲荷神社1 田の神1 天王宮1 市杵嶋姫命1 須佐之男命1 保食神1 伊邪那岐命1 伊邪那美命1 金山比古命1 稲荷神1 三峰山の神1 誉田別命(応神天皇)1 地蔵菩薩(六地蔵)1 稚産霊神1 天御鉾命1 イザナギノミコト1 筑波男神(伊弉諾尊)1 筑波女神(伊弉冉尊)1 天照大神1 八坂大神1 弥勒菩薩1 六所大仏1 伊弉諾尊1 伊弉冉尊1 六神様(六祖神霊)の荒御魂〔新魂宮〕1 司官御霊〔司官御霊社〕1 蔵王権現1 志那都比古神1 志那都比売神1 中筒男神1 猿田毘古神1 木花咲耶姫神1 武甕槌命1 建御名方命1 事代主命1 毗那良珠命1 天神社1 道祖神1 大山咋神1 火産霊神(愛宕)1 青面金剛1 猿田彦1 日蓮聖人1 親鸞聖人1 道祖神(塞の神)1 猿田彦命1 阿弥陀如来(中尊)1 毘沙門天(多聞天)1 不動明王(波切不動明王)1 稲荷1 大弁財天1 天満大自在天神1 熊野権現1 岐神(くなどのかみ)1 天鳥船神(あまのとりふねのかみ)1 清瀧権現1 イワナガヒメ(磐長姫)1 稚産霊神(稚産霊命)1 金色姫(蚕影山大神)1 がま大権現(光誉上人)1 十一面観音1 南無六道能化地蔵菩薩1 阿弥陀如来(キリーク梵字)1 三宝大荒神1 大山祇命1 積羽八重事代主神1 市杵島姫命1 修行大師(弘法大師空海)1 増長天1 四天王(持国天・広目天・多聞天)1 飯縄権現1 弘法大師(修行大師・空海)1 愛染明王1 大聖歓喜天1 十一面観世音菩薩1 小天狗(烏天狗)1 大天狗1 広目天1 多聞天1 和脩吉竜王1 天日鷲命1 誉田別命1 足仲彦命1 息長足姫命1 仁徳天皇の御子(若宮八幡宮祭神)1 応神天皇(八幡様)1 八柱の神1 聖天(歓喜天)1
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9 records · filtered by Type “Kofun (burial mound)”

土塔山古墳(杉ノ木稲荷神社)[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4217 茨城県つくば市杉木297 2026-09-01
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)土塔山古墳(どとうやまこふん) 全長六一・三m、高さ三・七mの前方後円墳。杉ノ木・漆所地内には多くの古墳が点在するが、その中でも最大かつ最古のものである。前方部が低くて長い特徴から、四世紀後葉〜五世紀前葉頃(古墳時代前期〜中期)の築造と考えられる。筑波山南麓では一世代に一基ずつ、大型古墳が造られている。この古墳もその一つに数えられるもので、地域に君臨した首長の墓である。 墳丘測量図 ※図は筑波大学発行『筑波古代地域史の研究』から転載。
多気太郎義幹之墓[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条290−2 2026-08-29
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)多気太郎義幹之墓 多気太郎義幹は桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より数えて十一代に当る。三代高望王より平氏を称し、四代良望は常陸大掾に任ぜられ、平国香と名乗る。六代維幹は水守より多気城(現北条城山)に移り初代城主となるが、直系子孫は常陸平氏の本家とされる。維幹より六代目の城主が多気太郎義幹である。名君の誉れ高く領民のため無量院裏池及び現在町内を流れる通称裏堀を開削し、水利に多大の貢献を果している。しかるに源頼朝の全国支配が進展するにつれ、義幹は知家の讒にかかる曽我…
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多気太郎義幹之墓 多気太郎義幹は桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より数えて十一代に当る。三代高望王より平氏を称し、四代良望は常陸大掾に任ぜられ、平国香と名乗る。六代維幹は水守より多気城(現北条城山)に移り初代城主となるが、直系子孫は常陸平氏の本家とされる。維幹より六代目の城主が多気太郎義幹である。名君の誉れ高く領民のため無量院裏池及び現在町内を流れる通称裏堀を開削し、水利に多大の貢献を果している。しかるに源頼朝の全国支配が進展するにつれ、義幹は知家の讒にかかる曽我兄弟の討ち入りに関し、身を駿河国に預けられあい領地はただちに没収され、〔判読不能〕建久四年頼朝の富士の巻狩りにかわる小田の地に八田知家の支配下に〔判読不能〕当地にて歿した。没日は七月六日と十五日の二説がある。遺臣等義幹の遺徳を偲び霊骸を迎えて当地に葬る。以って英魂の安慰を奉り今日に至っている。なお無量院は義幹の建立になり、のち時宗四代呑海上人が当地を遊行のみぎり、無量院殿等阿弥陀佛の戒名を上人が当地を遊行のみぎり、名を追贈している。
平沢三号墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢629−1 2026-08-26
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)平沢三号墳 四基が現存する平沢古墳群の一つで、通称前島岩屋という。一辺約一九mの方墳で、南側に横穴式石室が開口する。発掘調査では、七世紀中葉〜後半頃(古墳時代終末期)の鉄鏃(矢じり)や須恵器が出土した。また、石室の前で八世紀前葉頃(奈良時代)の火葬墓も検出された。当時の火葬は有力者や役人に広がった風習で、古墳と古代筑波郡役所跡である平沢官衙遺跡との深い関係を示している。江戸時代には一字一石経塚として再利用され、信仰された。 須恵器骨蔵器・蓋の出土状況
平沢一号墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢582 2026-08-24
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)平沢二号墳(ひらさわにごうふん) 四基が現存する平沢古墳群の一つで、通称 開山岩屋(かいさんいわや)という。墳丘の規模や形は不詳 であるが、横穴式石室の一部で遺体を納めた 後室が〔判読不能〕 入口の玄門を精美に加工す る特徴〔判読不能〕 7世紀中葉〜後半頃(古墳時代) 〔判読不能〕の築造が推測される。なお、この玄 門〔判読不能〕不動〔明王〕〔判読不能〕遠弁を表現したもので、仏教の影 〔判読不能〕いるとする見解もある。〔判読不能〕傍らに「法華〔経〕一字一石経 雲外謹書」〔判読不…
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平沢二号墳(ひらさわにごうふん) 四基が現存する平沢古墳群の一つで、通称 開山岩屋(かいさんいわや)という。墳丘の規模や形は不詳 であるが、横穴式石室の一部で遺体を納めた 後室が〔判読不能〕 入口の玄門を精美に加工す る特徴〔判読不能〕 7世紀中葉〜後半頃(古墳時代) 〔判読不能〕の築造が推測される。なお、この玄 門〔判読不能〕不動〔明王〕〔判読不能〕遠弁を表現したもので、仏教の影 〔判読不能〕いるとする見解もある。〔判読不能〕傍らに「法華〔経〕一字一石経 雲外謹書」〔判読不能〕この古墳が一字〔判読不能〕
北条中台古墳群 第1号墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条1363 2026-08-24
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)北条中台古墳群 第1号墳 6世紀末~7世紀前半に築造された古墳で、墳丘は長い年月の中で失われ、横穴式石室のうち遺体を葬った玄室が露出しています。玄室内は長さ4.1m、幅2.6m、高さ1.5m以上で、筑波山南麓では最大級の規模です。長さ4mを超える巨石の使用も特筆されます。地域の最有力者の墓と考えられ、『常陸国風土記』に登場する「筑波国造」との関係が注目されます。  石材は北側の平沢地区の山地で採取できる黒雲母片岩で、板状に割りやすい特性から、霞ケ浦・鬼怒川沿岸の広い範囲で古墳…
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北条中台古墳群 第1号墳 6世紀末~7世紀前半に築造された古墳で、墳丘は長い年月の中で失われ、横穴式石室のうち遺体を葬った玄室が露出しています。玄室内は長さ4.1m、幅2.6m、高さ1.5m以上で、筑波山南麓では最大級の規模です。長さ4mを超える巨石の使用も特筆されます。地域の最有力者の墓と考えられ、『常陸国風土記』に登場する「筑波国造」との関係が注目されます。  石材は北側の平沢地区の山地で採取できる黒雲母片岩で、板状に割りやすい特性から、霞ケ浦・鬼怒川沿岸の広い範囲で古墳の石棺や石室に多く使用されました。 令和6年(2024年)3月 つくば市教育委員会
佐都ヶ岩屋古墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢1257 2026-08-19
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)つくば市 指定史跡 佐都ヶ岩屋古墳 昭和四十八年十二月十二日指定 ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かつてはたくさんの古墳があったと推測される。現存するのは四基のみであるが、その中の一基、この佐都ヶ岩屋古墳(平沢一号墳)は、筑波山南麓の七世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓といえる。 本古墳は、おおよそ南北二五m、東西三五m、高さ七mの方墳で、南側に巨大な板石を…
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つくば市 指定史跡 佐都ヶ岩屋古墳 昭和四十八年十二月十二日指定 ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かつてはたくさんの古墳があったと推測される。現存するのは四基のみであるが、その中の一基、この佐都ヶ岩屋古墳(平沢一号墳)は、筑波山南麓の七世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓といえる。 本古墳は、おおよそ南北二五m、東西三五m、高さ七mの方墳で、南側に巨大な板石を組み合わせた横穴式石室が開口している。石室は、石室内部が前室と後室に分かれる複室構造で、さらに全国でもめずらしい平面T字形である。築造された時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、七世紀半ばから後半頃と考えられる。 六世紀以前、首長の墓は前方後円墳を基本としていたが、六世紀末頃からは大型の円墳や方墳へと変わり、八世紀までには古墳そのものの築造が終わりを迎える。この古墳終末までの時期を、古墳時代終末期という。そして、このような全国的な古墳築造の変遷は、中央集権的な国家制度の整備や仏教の普及に連動するものと考えられている。古墳時代終末期に築造され、時代的特徴と規模を備えた本古墳の存在は、中央において着々と進む国家体制づくりを伝えるものである。 かつてこの地一帯は、筑波国造が治めていたと考えられる。そして、国・郡(評)・里という地方制度が成立した際、各地の国造が郡司(評督)となったといわれる。古代筑波郡役所跡である平沢官衙遺跡を見下ろす位置に築造された本古墳の被葬者と、筑波国造・筑波郡司との関係も注目される。 なお、平将門の娘、瀧夜叉姫が、ここに隠れ住んでいたとの伝説もある。 墳丘測量図(1:200) 石室実測図(1:60) ※図は、昭和57年、筑波大学考古学研究会発行『茨城県筑波郡筑波町 平沢・山口古墳群調査報告』から転載、一部配置を改変。 平成十八年七月二十五日 つくば市教育委員会
八幡塚[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4353 茨城県つくば市沼田369 2026-08-17
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 周隍は不明瞭だが、…
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茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 周隍は不明瞭だが、前方部東側の八幡池を中心に墳丘東側には存在していたようである。写真の人物埴輪頭部は八幡池から出土したという。 築造時期は主体部が未調査のため明確ではないが、墳丘出土の埴輪から、古墳時代後期、六世紀前葉頃と考えられている。当時は墳丘が巨大化し、埴輪祭祀が行われ、地域毎に有力な政治集団が成長、発展した時代である。そのため本古墳は当地方の国造だったとされる阿閇色命の墳墓との説もある。 なお西方約六〇mに横穴式石室を露出する円墳が所在している。 平成八年三月 つくば市教育委員会
権現塚古墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒314-0114 茨城県神栖市日川4244 2026-08-16
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから…
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権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから古墳時代前期に造られたと考えられます。後円部は遺体の埋葬施設であり、前方部は葬送儀礼(葬〔判読不能〕)を行う場であると〔判読不能〕。前方部への通路であったと思われます。現在市内に残っている唯一の〔判読不能〕であるとともに、この権現塚も自然堤防上の微高地(たとえば丘や山頂)を利用する〔判読不能〕。 この〔判読不能〕側には古墳時代〜奈良・平安時代にかけて営まれた集落址で、この集落の人々が首長を埋葬するため権〔判読不能〕塚道路が存在しており〔判読不能〕 古墳も五世紀後葉には小型化していき、七世〔判読不能〕には地方の豪族の権力が弱まったことを示すといえるでしょう。 神栖市教育委員会
大塚原古墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒289-2533 千葉県旭市大塚原1177 2026-08-16
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)旭市指定史跡 大塚原古墳 昭和五十二年一月二十五日指定 近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。 伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を、「藤原鎌足」の出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿の海…
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旭市指定史跡 大塚原古墳 昭和五十二年一月二十五日指定 近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。 伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を、「藤原鎌足」の出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿の海近くで亡き妃を偲びつつ農耕生活を送ったという。後に浪荒い海岸からここ大塚原に改葬し、その霊を慰めるため近くに内裏神社を創建したという。 このことは長い間、村人たちによって語り伝えられ尊崇され、内裏神社では三十三年ごとに大祭を行ない、最近では平成十五年に大祭が盛大に行われた。 明治二十四年、風雨で墳丘が崩壊した時に、従者中臣英勝の名を刻んだ石板、及び人骨、数点の土器類が出土したが、その時は学問的調査もされず埋め戻された。 昭和四十六年十一月、改めて大塚原古墳の整備を行ない、その際、出土した甕の中からいくつかの人骨を発見した。千葉県教育委員会、旭市教育委員会、大塚原、泉川、川口の地元関係区、などによって、人骨を新潟大学医学部に鑑定を依頼した。その結果、長い歳月を経てきたため細片化し、体数、性別など明確でなかったが、中に高貴の人の埋葬に使用したと思われる朱の付いたか細い骨片が発見された。 長い間の伝承と石板、及び出土人骨の朱から、ここは弘文天皇妃耳面刀自媛や従者中臣英勝らを埋葬した墳墓と考えられ、『弘文天皇妃耳面刀自媛之陵墓』とした。 令和元年七月 旭市教育委員会

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