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Type All Other13 Kofun (burial mound)9 Castle ruins1 Temple18 Shrine40 Archaeological site3
Motif 神仏習合9 山岳信仰6 鎮魂6 天神信仰5 前方後円5 横穴式石室5 律宗4 忍性4 筑波山4 阿弥陀信仰4 道祖神4 地蔵信仰3 磐座3 稲荷3
Deity 阿弥陀如来8 地蔵菩薩4 宇迦之御魂神3 菅原道真3 薬師如来2 火産霊神2 大国主命2 岐神(くなどのかみ)2 天鳥船神(あまのとりふねのかみ)2 住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)2 応神天皇(八幡神)2 稚産霊神2
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埴山姫命2 木花開耶姫命2 観音菩薩2 勢至菩薩2 一言主大神2 素戔嗚1 木花咲耶姫命1 不動明王1 弘法大師(遍照金剛)1 羽黒大神1 伊弉冉命1 愛宕神1 天照大神1 天穂日命1 別雷命1 於岐都説神(おきつせのかみ)1 雷大神(別雷神)1 須佐之男命(津島大神)1 菅原道真(天満宮)1 稲荷神(宇迦之御魂神)1 田の神1 牛頭天王(天王宮)1 少彦名命1 大己貴命1 宇気母知神(保食神)1 伊邪那岐命1 伊邪那美命1 市杵嶋姫命1 須佐之男命1 金山比古命1 八幡神1 天御鉾命1 イザナギノミコト1 天御中主神1 国常立尊1 筑波男神(伊弉諾尊)1 筑波女神(伊弉冉尊)1 弥勒菩薩1 鹿島明神(武甕槌)1 白鳥明神1 弁天1 天照皇大神1 伊弉諾尊1 伊弉冉尊1 六神(六祖神霊)の荒御魂1 司官御霊1 蔵王権現1 志那都比売神1 中筒男神1 志那都比古神1 猿田比古神1 木花咲耶姫神1 武甕槌命1 建御名方命1 事代主命1 毗那良珠命1 天神(天神社)1 道祖神1 大山咋神1 道祖神(塞の神)1 猿田彦命1 日本武尊1 毘沙門天(多聞天)1 波切不動明王1 弘法大師1 天満大自在天神1 稲荷尊1 大弁財天1 熊野権現1 馬頭観音1 清龍権現1 素戔嗚尊1 イワナガヒメ(磐長姫)1 がま大権現(光誉上人)1 十一面観音1 六道能化地蔵菩薩1 三宝荒神1 大山祇命1 積羽八重事代主神1 市杵島姫命1
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平澤八幡神社[Shrine]📜 式内社(比定候補)🏆 名神大社
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢582 2026-08-19
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)茨城県指定 工芸品 石造六角地蔵宝幢 昭和四十六年一月二十八日指定 十六世紀から十七世紀初期にかけて、筑波山周辺では、石造六角地蔵宝幢の造立が流行する。その最初期の例が、新治村本郷の盛泉寺にあるもので、永正十六年(一五一九)に作られた。 この種の宝幢の特長は、石灯籠と同じように、笠に蕨手(わらびて)があることである。そのためながい間六地蔵石灯籠と呼びならわされてきた。 本幢は十六世紀末頃の製作であり、盛泉寺のと比較するとだいぶ形式化しているが、基礎から宝珠まで完存し、当代の…
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茨城県指定 工芸品 石造六角地蔵宝幢 昭和四十六年一月二十八日指定 十六世紀から十七世紀初期にかけて、筑波山周辺では、石造六角地蔵宝幢の造立が流行する。その最初期の例が、新治村本郷の盛泉寺にあるもので、永正十六年(一五一九)に作られた。 この種の宝幢の特長は、石灯籠と同じように、笠に蕨手(わらびて)があることである。そのためながい間六地蔵石灯籠と呼びならわされてきた。 本幢は十六世紀末頃の製作であり、盛泉寺のと比較するとだいぶ形式化しているが、基礎から宝珠まで完存し、当代の様式をうかがうことができる遺例として、貴重なものである。 花崗岩 総高一六八cm 平成二年十二月 つくば市教育委員会
平沢八幡神社[Shrine]📜 式内社(比定候補)🏆 名神大社
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢582 2026-08-19
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)茨城県指定 工芸品 石造六角地蔵宝幢 昭和四十六年一月二十八日指定 十六世紀から十七世紀初期にかけて、筑波山周辺では、石造六角地蔵宝幢の造立が流行する。その最初期の例が、新治村本郷の盛泉寺にあるもので、永正十六年(一五一九)に作られた。 この種の宝幢の特長は、石灯籠と同じように、笠に蕨手(わらびて)があることである。そのためながい間六地蔵石灯籠と呼びならわされてきた。 本幢は十六世紀末頃の製作であり、盛泉寺のと比較するとだいぶ形式化しているが、基礎から宝珠まで完存し、当代の…
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茨城県指定 工芸品 石造六角地蔵宝幢 昭和四十六年一月二十八日指定 十六世紀から十七世紀初期にかけて、筑波山周辺では、石造六角地蔵宝幢の造立が流行する。その最初期の例が、新治村本郷の盛泉寺にあるもので、永正十六年(一五一九)に作られた。 この種の宝幢の特長は、石灯籠と同じように、笠に蕨手(わらびて)があることである。そのためながい間六地蔵石灯籠と呼びならわされてきた。 本幢は十六世紀末頃の製作であり、盛泉寺のと比較するとだいぶ形式化しているが、基礎から宝珠まで完存し、当代の様式をうかがうことができる遺例として、貴重なものである。 花崗岩 総高一六八cm 平成二年十二月 つくば市教育委員会
佐都ヶ岩屋古墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4213 茨城県つくば市平沢1257 2026-08-19
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)つくば市 指定史跡 佐都ヶ岩屋古墳 昭和四八年十二月十二日指定 ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かつてはたくさんの古墳があったと推測される。現存するのは四基のみであるが、その中の一基、この佐都ヶ岩屋古墳(平沢一号墳)は、筑波山南麓の七世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓といえる。 本古墳は、おおよそ南北二五m、東西三五m、高さ七mの方墳で、南側に巨大な板石を組…
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つくば市 指定史跡 佐都ヶ岩屋古墳 昭和四八年十二月十二日指定 ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かつてはたくさんの古墳があったと推測される。現存するのは四基のみであるが、その中の一基、この佐都ヶ岩屋古墳(平沢一号墳)は、筑波山南麓の七世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓といえる。 本古墳は、おおよそ南北二五m、東西三五m、高さ七mの方墳で、南側に巨大な板石を組み合わせた横穴式石室が開口している。石室は、石室内部が前室と後室に分かれる複室構造で、さらに全国でもめずらしい平面T字形である。築造された時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、七世紀半ばから後半頃と考えられる。 六世紀以前、首長の墓は前方後円墳を基本としていたが、六世紀末頃からは大型の円墳や方墳へと変わり、八世紀までには古墳そのものの築造が終りを迎える。この古墳終末までの時期を、古墳時代終末期という。そして、このような全国的な古墳築造の変遷は、中央集権的な国家制度の整備や仏教の普及に連動するものと考えられている。古墳時代終末期に築造され、時代的特徴と規模を備えた本古墳の存在は、中央において着々と進む国家体制づくりを受け入れ、その変化に対応していった、この地域の人々の動向を伝えるものである。 かつてこの地一帯は、筑波国造が治めていたと考えられる。そして、国・郡(評)・里という地方制度が成立した際、各地の国造が郡司(評督)となったといわれる。古代筑波郡役所跡である平沢官衙遺跡を見下ろす位置に築造された本古墳の被葬者と、筑波国造・筑波郡司との関係も注目される。 なお、平将門の娘、瀧夜叉姫が、ここに隠れ住んでいたとの伝説もある。 平成十八年七月二十五日 つくば市教育委員会
つくば道の道標(北条仲町)[Other]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条43 2026-08-19
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)日本の道百選 つくば道 筑波山は万葉の昔から神の山として仰がれてきた。近世には、江戸城の鬼門を守る祈願所なり。 歴代将軍の崇敬厚かったこの道は三代家光の時に筑波山参詣道として解放され住時の信仰の道を今に伝えるものである。 このつくば道は歴史を語る道として昭和六十一年建設省により「日本の道百選」に選ばれた。 北条商店会
蚕影神社[Shrine]
📍 日本、〒300-4212 茨城県つくば市神郡2000 2026-08-19
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)蚕影神社(こかげじんじゃ) 【鎮座地】茨城県つくば市神郡一九九八番地 【祭神】稚産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命 【祭祀】蚕糸祭 例祭 十月二十三日/三月二十八日(豊蚕祈願祭) 【由緒沿革】第十三代成務朝、忍凝見命孫、阿部閇色命は筑波国造に赴任するや、〔判読不能〕筑波大神に奉仕した。更に豊浦に稚産霊神を鎮祭し、山麓にはこの霊地を守護するための蚕影山桑林寺が建立された。〔判読不能〕正に日本養蚕の始めと誇るところで、全国蚕業家尊崇の名社である。 「金色姫」天竺仲国の姫君金色姫は四度…
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蚕影神社(こかげじんじゃ) 【鎮座地】茨城県つくば市神郡一九九八番地 【祭神】稚産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命 【祭祀】蚕糸祭 例祭 十月二十三日/三月二十八日(豊蚕祈願祭) 【由緒沿革】第十三代成務朝、忍凝見命孫、阿部閇色命は筑波国造に赴任するや、〔判読不能〕筑波大神に奉仕した。更に豊浦に稚産霊神を鎮祭し、山麓にはこの霊地を守護するための蚕影山桑林寺が建立された。〔判読不能〕正に日本養蚕の始めと誇るところで、全国蚕業家尊崇の名社である。 「金色姫」天竺仲国の姫君金色姫は四度の受難の後、〔判読不能〕土地の古老曰く、常陸なる〔…〕これ日本の養蚕の始めである。 「各谷姫」第二十九代欽明天皇皇女各谷姫、筑波山に飛至り神となり始めて神衣を織られた。国人等に養蚕太神と崇め奉られた。 萬葉集 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君がみけしにあやにきほしも(巻十四 三三五〇)
慈眼山三光院普門寺[Temple]
📍 日本、〒300-4212 茨城県つくば市神郡300 4212 2026-08-17
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)普門寺の歴史 鎌倉時代末、元亨年間(一三二一年〜一三二四年)〔判読不能〕帯で布教活動を続けていた乗海大和尚によって開かれた真言宗〔判読不能〕山派の寺院である。慈眼山三光院普門寺と号し、平安末期の〔判読不能〕僧都御作の阿弥陀如来が御本尊です。 常陸の豪族小田家の祈願寺として往時の隆盛を極め、末寺六〇八寺を有して、十万石の格式を誇った〔判読不能〕日本仏教史上重要な役割を果〔判読不能〕多く檀林が開かれた田舎本寺として〔判読不能〕した古刹である。しかし歴史の流れの中で浮沈を繰り返し〔…
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普門寺の歴史 鎌倉時代末、元亨年間(一三二一年〜一三二四年)〔判読不能〕帯で布教活動を続けていた乗海大和尚によって開かれた真言宗〔判読不能〕山派の寺院である。慈眼山三光院普門寺と号し、平安末期の〔判読不能〕僧都御作の阿弥陀如来が御本尊です。 常陸の豪族小田家の祈願寺として往時の隆盛を極め、末寺六〇八寺を有して、十万石の格式を誇った〔判読不能〕日本仏教史上重要な役割を果〔判読不能〕多く檀林が開かれた田舎本寺として〔判読不能〕した古刹である。しかし歴史の流れの中で浮沈を繰り返し〔判読不能〕っている。 伽藍、境内の佇まいは素朴であるが〔判読不能〕南高台からの筑波山は絶景ポイント〔判読不能〕 本堂は寛政年間再建、客殿(講堂)が〔判読不能〕年間再建、平成十三年再建、赤門が天〔判読不能〕年間の建立〔判読不能〕不詳、書院は慶応年間新築、境内は九〇〇平方メートル〔判読不能〕両界曼荼羅(江戸期つくば市重文)、小田家供養塔〔判読不能〕十八世元雅大和尚〔判読不能〕遺跡、寛〔判読不能〕天狗党〔判読不能〕蔵鎮魂碑等が現存する。 南無阿弥陀仏
飯名神社[Shrine]
📍 日本、〒300-4211 茨城県つくば市臼井1 2026-08-17
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)飯名神社由來記 一、古くから稲野(飯名野)の弁天として近隣に信仰され〔判読不能〕常陸風土記〔判読不能〕和銅六年〔判読不能〕飯名郡〔判読不能〕 一、其後〔判読不能〕正月初巳日〔判読不能〕御遷宮〔判読不能〕 一、筑波山中腹〔判読不能〕造立〔判読不能〕祭神〔判読不能〕 一、万葉集巻十東歌「筑波嶺に雪かも降らる〔判読不能〕」伊奈〔判読不能〕と解釈されている 一、例祭日は毎年旧正月初巳日〔判読不能〕 一、祭神・配祀 宇気母知神、大己貴命、伊邪那岐命、伊邪那美命、市杵嶋姫命、須佐之男命、…
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飯名神社由來記 一、古くから稲野(飯名野)の弁天として近隣に信仰され〔判読不能〕常陸風土記〔判読不能〕和銅六年〔判読不能〕飯名郡〔判読不能〕 一、其後〔判読不能〕正月初巳日〔判読不能〕御遷宮〔判読不能〕 一、筑波山中腹〔判読不能〕造立〔判読不能〕祭神〔判読不能〕 一、万葉集巻十東歌「筑波嶺に雪かも降らる〔判読不能〕」伊奈〔判読不能〕と解釈されている 一、例祭日は毎年旧正月初巳日〔判読不能〕 一、祭神・配祀 宇気母知神、大己貴命、伊邪那岐命、伊邪那美命、市杵嶋姫命、須佐之男命、金山比古命〔判読不能〕 一、昭和二十七年一月二十三日 宗教法人設立 飯名神社々務所 〔別碑〕東日本大震災復興祈願 石玉垣建立記念碑 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分〔判読不能〕東北・関東地方に大地震が発生した〔判読不能〕福島、茨城四県〔判読不能〕神社においても鳥居〔判読不能〕石垣が半壊し〔判読不能〕氏子崇敬者の懸命の復旧作業により〔判読不能〕平成二十四年二月に修復が叶う〔判読不能〕石玉垣を建立する 平成二十四年五月吉日
八幡塚[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒300-4353 茨城県つくば市沼田369 2026-08-17
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。 墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 〔判読不能〕は八…
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茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。 墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 〔判読不能〕は八幡池から出土したという。写真の人物埴輪〔判読不能〕 築造時期は主体部が未調査のため明確ではないが、墳丘出土の埴輪から、古墳時代後期、六世紀前葉頃と考えられている。〔判読不能〕有力な政治集団が成長、発展した時代である。そのため本古墳は当地方の国造だったとされる阿閉色命の墳墓との説もある。 なお西方約六〇mに横穴式石室を露出する円墳が所在している。 平成八年三月 つくば市教育委員会
雷神社[Shrine]⛩ 山城国一宮📜 式内社(比定候補)🏆 名神大社
📍 日本、〒289-2616 千葉県旭市見広1366−1 2026-08-16
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)雷神社由緒 〔雷大神〕 【創建】 雷神社(ライジンジャ)は、第十二代景行天皇が皇子日本武尊の東征の跡を御巡行なされた際、椿湖を望むこの地に立たれ、東国の総鎮守として創建された。古来より見広城主嶋田三河守を始め、千葉氏・源氏・松平氏等の崇敬も篤く、江戸時代からは海上郡十三郷の総鎮守として今日に至っている。 御祭神 天ノ穂日命 別雷命 鎮座地 海上郡海上町見広一三七一番地 【御祭神】 鎮地の神々 雷神社の神々は自然を治め、地上に起こる災いを鎮め、人々を守護し賜う神である。主…
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雷神社由緒 〔雷大神〕 【創建】 雷神社(ライジンジャ)は、第十二代景行天皇が皇子日本武尊の東征の跡を御巡行なされた際、椿湖を望むこの地に立たれ、東国の総鎮守として創建された。古来より見広城主嶋田三河守を始め、千葉氏・源氏・松平氏等の崇敬も篤く、江戸時代からは海上郡十三郷の総鎮守として今日に至っている。 御祭神 天ノ穂日命 別雷命 鎮座地 海上郡海上町見広一三七一番地 【御祭神】 鎮地の神々 雷神社の神々は自然を治め、地上に起こる災いを鎮め、人々を守護し賜う神である。主祭神の天穂日命は天照大神の御子で、当地方の祖神である。大神は天照大神から地上の悪神を鎮める命を受け、地上の乱れを平定した。国土開発・商売繁盛・産業振興の守護神として信仰されている。別雷命は、平安時代の始め(桓武天皇の延暦十二年・西暦七九三年)に京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)より御迎えした大神で、これにより桓武天皇から『雷大神』の称号を賜った。大神は雨と治水を司り、大自然を支配する神である。河川の治水、更に農業・漁業・天蚕業のほか諸産業の守護神として崇敬を集めている。また、人類の邪悪を祓い除き、地鎮・諸災厄除け・開運・方位除災・平和福祉の増進を達成される神である。 【式年銚子大神幸祭】 堀川天皇の康和四年(西暦一一〇二年)に銚子市高神一帯に大津波が起こり、大嵐が続いた。この時、天皇の勅命により雷神社、豊玉姫神社、東大社の三社が御神幸祭を斎行し、天変地異を鎮めた。以来、御神幸祭は第九回までは毎年行なわれ〔判読不能〕平成に入ってからは、平成二年と二十二年四月の斎行である。〔以下判読不能〕関東一の大神輿と言われている。 【祭禮】 一月一日 元旦祭 二月三日 節分祭 二月二十五日 例大祭 三月十五日 例大祭 〔以下判読不能〕 【指定文化財】 雷神社の御神幸 無形民俗文化財 雷神社の森 天然記念物 雷神社の力石 有形民俗文化財
権現塚古墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒314-0114 茨城県神栖市日川4244 2026-08-16
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから古墳…
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権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから古墳時代前期に造られたと考えられます。後円部は遺体の埋葬施設であり、前方部は葬送儀礼(葬〔判読不能〕式)を行う場であるとともに、後円部への通路であったと思われます。現在市内に残っている唯一の前方後円墳です。〔以下判読不能〕 神栖市教育委員会
海上雷神社(雷神社)[Shrine]📜 式内社(比定候補)🏆 名神大社
📍 日本、〒289-2616 千葉県旭市見広1371 2026-08-16
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)【津島大神】 宮本見広の祇園祭(夏祭り・七月下旬)に渡御する神輿。須佐之男命(スサノヲノミコト)が御奉戴される神輿である。祇園祭は京都の祇園の八坂神社の煌びやかな夏祭りが全国に広がったもので、当社では江戸時代の享和四年(一八〇四)に、同一神を祀る愛知県の津島神社の御祭神を勧請し、境内の石宮にお祀りした。この神輿も原型は古い様式を踏襲しているが、細工が精巧で、〔判読不能〕垂木を用いるなど優れた技法で建造されている。昭和四十五年と平成二十四年に大規模改修を行っている。 【天満宮…
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【津島大神】 宮本見広の祇園祭(夏祭り・七月下旬)に渡御する神輿。須佐之男命(スサノヲノミコト)が御奉戴される神輿である。祇園祭は京都の祇園の八坂神社の煌びやかな夏祭りが全国に広がったもので、当社では江戸時代の享和四年(一八〇四)に、同一神を祀る愛知県の津島神社の御祭神を勧請し、境内の石宮にお祀りした。この神輿も原型は古い様式を踏襲しているが、細工が精巧で、〔判読不能〕垂木を用いるなど優れた技法で建造されている。昭和四十五年と平成二十四年に大規模改修を行っている。 【天満宮】 祇園祭(夏祭り)の際に、宮本の見広区内を渡御する子供神輿。子供神輿の渡御が暫く途絶えていたため、昭和五十二年にこの神輿を建造し、境内石宮に天満宮を勧請して御祭神となした。雷神社の御神輿は、子供神輿のみならず、雷大神、津島大神に至るまで全て、地元宮大工の手により造営されたものである。
大塚原古墳[Kofun (burial mound)]
📍 日本、〒289-2533 千葉県旭市大塚原1177 2026-08-16
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)旭市指定史跡 大塚原古墳 昭和五十二年一月二十五日指定 近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。 伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を父「中臣英勝」らの出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。 妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿…
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旭市指定史跡 大塚原古墳 昭和五十二年一月二十五日指定 近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。 伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を父「中臣英勝」らの出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。 妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿の海近くで亡き妃を偲びつつ農耕生活を送ったという。後に浪荒い海岸からここ大塚原に改葬し、その霊を慰めるため近くに内裏神社を創建したという。 このことは長い間、村人たちによって語り伝えられ尊崇され、内裏神社では三十三年ごとに大祭を行ない、最近では平成十五年に大祭が盛大に行われた。 明治二十四年、風雨で墳丘が崩壊した時に、従者中臣英勝の名を刻んだ石板、及び人骨、数点の土器類が出土したが、その時は学問的調査もされず埋め戻された。 昭和四十六年十一月、改めて大塚原古墳の整備を行ない、その際、出土した甕の中からいくつかの人骨を発見した。千葉県教育委員会、旭市教育委員会、大塚原、泉川、川口の地元関係区、内裏神社氏子などによって、人骨を新潟大学医学部に鑑定を依頼した。その結果、〔判読不能〕体数、性別など明確でなかったが、中に高貴の人の埋葬に使用したと思われる朱の付いた細い骨片が発見された。 長い間の伝承と石板、及び出土人骨の朱から、ここは弘文天皇妃耳面刀自媛や従者中臣英勝らを埋葬した墳墓と考えられ、『弘文天皇妃耳面刀自媛之陵墓』とした。 令和元年七月 旭市教育委員会
下羽黒神社[Shrine]📜 式内社(比定候補)
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲37 2026-08-15
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)下館初代城主水谷氏尊崇の神社 下羽黒神社 筑西市大町甲三七番地 下羽黒神社の中心の神社。文明十年(一四七八)水谷左近将監勝氏(初代)が結城家より独立し、下館に築城。三年後の文明十三年(一四八一)羽黒大神を勧請した。 勝氏は、古式により下館城の鬼門の稲野辺村、風門の下岡崎村、病門の外塚村、天門の岡芹村に五つの羽黒神社を創建した。 その後、天文十四年(一五四五)水谷政村(六代)が久下田に築城、鬼門にあたる大根田村と病門にあたる口戸村に羽黒神社を創建した。世に七羽黒と呼ばれている…
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下館初代城主水谷氏尊崇の神社 下羽黒神社 筑西市大町甲三七番地 下羽黒神社の中心の神社。文明十年(一四七八)水谷左近将監勝氏(初代)が結城家より独立し、下館に築城。三年後の文明十三年(一四八一)羽黒大神を勧請した。 勝氏は、古式により下館城の鬼門の稲野辺村、風門の下岡崎村、病門の外塚村、天門の岡芹村に五つの羽黒神社を創建した。 その後、天文十四年(一五四五)水谷政村(六代)が久下田に築城、鬼門にあたる大根田村と病門にあたる口戸村に羽黒神社を創建した。世に七羽黒と呼ばれている。 羽黒神社は境内六千余坪、三十七石を寄進し、水谷家の武運長久、領民の安泰を祈願している。 水谷氏移封後も、松平、増山、黒田、石川等歴代藩主の尊崇篤く、享保十三年(一七二八)黒田直邦が本殿の大改修を行なった。 昭和五年六月郷社に列せられる。 尚、平成十四年本殿が茨城県文化財(建造物)に指定。 寄贈 下館商工会議所
羽黒神社[Shrine]📜 式内社(比定候補)
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲35−4 2026-08-15
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)大朋稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神 穀物・産業・守り神様 商売繁盛・五穀豊穣・家内安全
日限天満宮[Shrine]📜 式内社
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲37 2026-08-15
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)学業試験合格祈願社 日限天満宮 祭日一月二十五日・初天神の日 (鳥居扁額)日限天満宮 (碑)東参道記念之碑 (社号標)献/奉
小舘音頭歌碑[Other]
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲42−3 2026-08-15
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)小舘音頭歌碑 〔各面に歌詞・番号「八 踊…」「九…」「十…」等が彫られるが草書で大半判読不能〕 〔作詞者・作曲者名と思われる小字あり・判読不能〕
作詞家 矢野亮先生 顕彰之碑[Other]
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲40−7 羽黒児童公園 2026-08-15
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)作詞家 矢野亮先生 顕彰之碑 夕焼けとんびをはじめ、一千曲以上のヒット曲を作詞した矢野亮先生の功績を称え、ここに顕彰する 主なヒット曲 夕焼けとんび 歌・三橋美智也 リンゴ村から 歌・々 唐獅子牡丹 歌・高倉健 おーい中村君 歌・若原一郎 あん時ゃどしゃぶり 歌・春日八郎 星影の小径 歌・小畑実 ブギ真室川音頭 歌・林伊佐緒 待ちましょう 歌・津村謙 喫茶店の片隅で 歌・松島詩子 夕焼け空がマッカッカ とんびがくるりと輪を描いた ホーイのホイ 筑西市長 須藤茂 書
神明神社[Shrine]📜 式内社(比定候補)
📍 日本、〒308-0813 茨城県筑西市大塚218 2026-08-15
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)御大典 紀念 神宮遙拝之碑 〔判読不能〕昭和三年〔判読不能〕十五日 社〔判読不能〕
石造地蔵菩薩立像(湯地蔵)[Temple]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田4002 2026-08-09
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)茨城県指定 彫刻 石造地蔵菩薩立像(石造龕を含む) 昭和三十七年十月二十四日指定 像高 一五七・五cm このあたり一帯は、三村山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を 「尼寺入り」といい、かつては、僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでい たことだろう。 建長四年(一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地に とどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡 が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔などが現存する。それら は、忍性止住の間に…
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茨城県指定 彫刻 石造地蔵菩薩立像(石造龕を含む) 昭和三十七年十月二十四日指定 像高 一五七・五cm このあたり一帯は、三村山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を 「尼寺入り」といい、かつては、僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでい たことだろう。 建長四年(一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地に とどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡 が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔などが現存する。それら は、忍性止住の間につくられたものかどうか確証はないが、西大寺系律宗 文化の介在とその影響のもとに、造営されたことは明らかである。 忍性は弘長元年(一二六一)鎌倉に去る。本像はその二十八年後の正応二 年(一二八九)に造立されたものである。仏龕奥壁の左右に、次の銘文が刻 まれている。 (右) 右為法界衆生平等利益也 檀那左衛門尉 (左) 正應二年丑十一月十日造立 勧進佛子阿浄 左衛門尉は小田氏の四代時知か、あるいは五代宗知に推定される。阿浄 は「西大寺有恩過去帳」にその名が見える。 本像は、約七〇センチ角の方柱状花崗岩を使って、その一石に、本体及 び蓮華座、そして錫杖・宝珠・頭光を高浮彫り風に彫出し、背面を残して 奥壁とする。この両側に幅約六〇センチ、厚さ約一六センチの側壁を立て、 上に屋蓋を乗せて龕を形づくる。惜しくも相輪を欠失するが、ほかは全て 当初のままである。 俗に「湯地蔵」といわれ、安産と乳が出るようにという祈願のために、 小田の人々によって守られてきたのである。 本像は鎌倉時代後期の在銘石造地蔵菩薩像として、また屋蓋付の石龕に おさまる完好の遺物として、美術工芸史的にもきわめて重要な作品である。 平成元年三月 つくば市教育委員会
極楽寺公園(忍性記念)[Temple]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田 545F+9M 2026-08-09
— Verbatim text of the origin-board (Japanese, as legible)忍性記念 極楽寺公園 極楽寺と忍性について ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。 極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 それは民心を…
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忍性記念 極楽寺公園 極楽寺と忍性について ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。 極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 それは民心を掌握するための手段の通例のことであった。それは民心を掌握するための手段の通例のことであった。 寺社領を寄進したり、寺社領を寄進したり、寺社領を寄進したりするのは通例の手段であった。この時寄進された極楽寺の規模については全く不明であるが、この時寄進された鐘は土浦市の等覚寺に現存する。 奈良西大寺の僧忍性がこの地に来たのは建長四年(一二五二)のことであった。仏法を興隆し衆生に利益せんとする一大発願に基づくものであった。当時の僧侶は髪を剃り僧衣を着てはいるが、実際のところは僧として守るべき戒律も知らず、僧として勤むべき修行も怠る有様であった。こうした中で忍性は戒律を厳め、あるべき正しい仏の教えを説いた。その影響は周辺にまで広く浸透し、この極楽寺について常州三村山八坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺ナリといわれるまでになった。 正嘉二年(一二五七)に至り、忍性は極楽寺の堂舎を一新した。それが今に残る極楽寺の遺址である。山腹には薬師堂がそびえたち、山裾には僧寺と尼寺が並びたって、壮麗な景観であったことだろう。建戦火を免れた石造物は小田の地に数多く残っている。 ・地蔵菩薩立像・五輪塔など稀代の名品である。 忍性は小田の地を去って鎌倉に移った後、鎌倉の極楽寺においてその生涯を終った。 宝篋山整備隊 平成二十六年四月