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由緒大辞典

KAMI-LEGACY

土地の由緒を、種別・神仏・主題・地域から引く。
原文(由緒板の写し)と、AIの読みは分けて扱う。

103 由緒あり / 103 うち原文取得済み
種別 全て その他19 古墳9 城址4 寺26 神社42 遺跡3
主題 神仏習合10 山岳信仰9 忍性6 鎮魂6 弘法大師5 天神信仰5 前方後円5 横穴式石室5 修験道5 律宗4 水運4 阿弥陀信仰4 八幡信仰4 養蚕4
神仏 阿弥陀如来6 一言主大神4 地蔵菩薩3 薬師如来3 大国主命3 宇迦之御魂神3 菅原道真3 観音菩薩3 勢至菩薩3 飯縄大権現3 素戔嗚尊2 不動明王2
▽ もっと(全125柱)
愛宕神2 住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)2 大日如来2 埴山姫命2 木花開耶姫命2 天照皇大神2 弘法大師(空海)2 木花咲耶姫命1 観世音菩薩1 弘法大師(遍照金剛)1 宇迦之御魂命1 仁王(金剛力士)1 羽黒大神1 伊弉冉命1 火産霊神1 宇迦之御魂神(稲荷神)1 愛宕神(火防の神)1 天照大御神1 天穂日命1 別雷命1 岐神(久那斗神/於岐都説神)1 天鳥船神1 雷大神1 須佐之男命(津島大神)1 天満宮1 稲荷神社1 田の神1 天王宮1 市杵嶋姫命1 須佐之男命1 保食神1 伊邪那岐命1 伊邪那美命1 金山比古命1 稲荷神1 三峰山の神1 誉田別命(応神天皇)1 地蔵菩薩(六地蔵)1 稚産霊神1 天御鉾命1 イザナギノミコト1 筑波男神(伊弉諾尊)1 筑波女神(伊弉冉尊)1 天照大神1 八坂大神1 弥勒菩薩1 六所大仏1 伊弉諾尊1 伊弉冉尊1 六神様(六祖神霊)の荒御魂〔新魂宮〕1 司官御霊〔司官御霊社〕1 蔵王権現1 志那都比古神1 志那都比売神1 中筒男神1 猿田毘古神1 木花咲耶姫神1 武甕槌命1 建御名方命1 事代主命1 毗那良珠命1 天神社1 道祖神1 大山咋神1 火産霊神(愛宕)1 青面金剛1 猿田彦1 日蓮聖人1 親鸞聖人1 道祖神(塞の神)1 猿田彦命1 阿弥陀如来(中尊)1 毘沙門天(多聞天)1 不動明王(波切不動明王)1 稲荷1 大弁財天1 天満大自在天神1 熊野権現1 岐神(くなどのかみ)1 天鳥船神(あまのとりふねのかみ)1 清瀧権現1 イワナガヒメ(磐長姫)1 稚産霊神(稚産霊命)1 金色姫(蚕影山大神)1 がま大権現(光誉上人)1 十一面観音1 南無六道能化地蔵菩薩1 阿弥陀如来(キリーク梵字)1 三宝大荒神1 大山祇命1 積羽八重事代主神1 市杵島姫命1 修行大師(弘法大師空海)1 増長天1 四天王(持国天・広目天・多聞天)1 飯縄権現1 弘法大師(修行大師・空海)1 愛染明王1 大聖歓喜天1 十一面観世音菩薩1 小天狗(烏天狗)1 大天狗1 広目天1 多聞天1 和脩吉竜王1 天日鷲命1 誉田別命1 足仲彦命1 息長足姫命1 仁徳天皇の御子(若宮八幡宮祭神)1 応神天皇(八幡様)1 八柱の神1 聖天(歓喜天)1
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103件 (81–100 を表示)

蚕影神社[神社]
📍 日本、〒300-4212 茨城県つくば市神郡2000 2026-08-19
— 由緒板の原文(読めた字)蚕影神社(こかげじんじゃ) 【鎮座地】茨城県つくば市神郡一九九八番地 【祭神】稚産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命 【祭祀】蚕糸祭 例祭 十月二十三日 三月二十八日(豊蚕祈願祭) 【由緒沿革】第十三代成務朝、忍凝見命孫、阿部閇色命は筑波国造に赴任するや、祭政一致の政務に基づき、筑波大神に奉仕した。更に豊浦に稚産霊神を鎮祭し、農業と養蚕業の振興に多大なる力を注いだ。後世、山麓にはこの霊地を守護するための蚕影山桑林寺が建立された。 古来より有名な常陸紬、即ち結城紬の産出及び絹川、…
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蚕影神社(こかげじんじゃ) 【鎮座地】茨城県つくば市神郡一九九八番地 【祭神】稚産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命 【祭祀】蚕糸祭 例祭 十月二十三日 三月二十八日(豊蚕祈願祭) 【由緒沿革】第十三代成務朝、忍凝見命孫、阿部閇色命は筑波国造に赴任するや、祭政一致の政務に基づき、筑波大神に奉仕した。更に豊浦に稚産霊神を鎮祭し、農業と養蚕業の振興に多大なる力を注いだ。後世、山麓にはこの霊地を守護するための蚕影山桑林寺が建立された。 古来より有名な常陸紬、即ち結城紬の産出及び絹川、蚕飼川、糸繰川など蚕業に関わる地名があるのは上代を物語る証左である。同名の社は甲信陸野武総諸州の各所にあるが、それらは皆当神社の御分霊であり、それ故に当神社の御神札に『日本一社』と拝記する。正に日本養蚕の始めと誇るところで、全国蚕業家尊崇の名社である。 萬葉集 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君がみけしにあやにきほしも(巻十四 三三五〇) 土地の古老曰く たたと立野に織る糸は筑波の山の錦なりけり 常陸なる 「金色姫」 天竺仲国の姫君金色姫は四度の受難の後、滄波萬里をしのぎこの地に着き、権太夫夫妻に掌中の玉と愛された。しかし、病に罹り終に露と消えた。ある夜夫妻の夢に「我に食を与えよ、必ず恩返しをする」と告げ、夫婦が夜明け亡がらを納めた唐櫃を開ければ中は小蟲ばかりで、桑の葉を与えると獅子、鷹、船、庭と四度の休眠を経て繭となった。筑波山の神が影道仙人として現れ、繭を練り綿にして糸を取る事を教えられた、これ日本の養蚕の始めである。 「各谷姫」 第二十九代欽明天皇皇女各谷姫、筑波山に飛至り神となり始めて神衣を織られた。国人等に養蚕太神と崇め奉られた。
慈眼山三光院普門寺[寺]
📍 日本、〒300-4212 茨城県つくば市神郡300 4212 2026-08-17
— 由緒板の原文(読めた字)普門寺の歴史 鎌倉時代末、元亨年間(一三二一年〜一三二四年)〔判読不能〕布教活動を続けていた乗海大和尚によって開創された真言宗〔判読不能〕派の寺院である。慈眼山三光院普門寺と号し、平安末期〔判読不能〕僧都御作の阿弥陀如来が御本尊です。 常陸の豪族小田家の祈願寺として隆盛を極め、末寺五〇八ヶ寺を有して、十万石の格式を誇った田舎本寺として、日本仏教史上重要な役割を果たした。多くの檀林が開かれた田舎本寺〔判読不能〕古刹である。しかし歴史の流れの中で浮沈を繰り返し現在に至っている。…
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普門寺の歴史 鎌倉時代末、元亨年間(一三二一年〜一三二四年)〔判読不能〕布教活動を続けていた乗海大和尚によって開創された真言宗〔判読不能〕派の寺院である。慈眼山三光院普門寺と号し、平安末期〔判読不能〕僧都御作の阿弥陀如来が御本尊です。 常陸の豪族小田家の祈願寺として隆盛を極め、末寺五〇八ヶ寺を有して、十万石の格式を誇った田舎本寺として、日本仏教史上重要な役割を果たした。多くの檀林が開かれた田舎本寺〔判読不能〕古刹である。しかし歴史の流れの中で浮沈を繰り返し現在に至っている。 伽藍、境内の佇まいは素朴であるが、静寂さが〔判読不能〕。南高台からの筑波山は絶景ポイントである。 地水火風空は大自然の根源、大日如来〔判読不能〕。本堂は寛政年間再建、客殿(講堂)が〔判読不能〕年間再建、平成十三年再建、赤門が天保年間〔判読不能〕不詳、書院は慶応年間新築、境内は〔判読不能〕平方メートル〔判読不能〕両界曼荼羅(江戸期つくば市重文)、小田〔判読不能〕十八世元雅大和尚入定遺跡、〔判読不能〕蔵鎮魂碑等が現存する。
飯名神社[神社]
📍 日本、〒300-4211 茨城県つくば市臼井1 2026-08-17
— 由緒板の原文(読めた字)飯名神社由来記 一、古くから稲野(飯名野)の弁天として近隣に人々の崇敬を集めていた… 一、常陸風土記…和銅六年…〔判読不能〕 一、筑波山中腹…弁天…〔判読不能〕 一、万葉集…「筑波嶺に雪かも降らる」…〔判読不能〕 一、例祭日は毎年旧正月初巳の日… 一、境内社、稲荷神社、愛宕、金山比古命、三峰山の神の各社 昭和二十七年一月二十三日 宗教法人設立 飯名神社々務所 〔別碑〕東日本大震災復興祈願 石玉垣建立記念碑 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、関東地方において大地震が発生し…
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飯名神社由来記 一、古くから稲野(飯名野)の弁天として近隣に人々の崇敬を集めていた… 一、常陸風土記…和銅六年…〔判読不能〕 一、筑波山中腹…弁天…〔判読不能〕 一、万葉集…「筑波嶺に雪かも降らる」…〔判読不能〕 一、例祭日は毎年旧正月初巳の日… 一、境内社、稲荷神社、愛宕、金山比古命、三峰山の神の各社 昭和二十七年一月二十三日 宗教法人設立 飯名神社々務所 〔別碑〕東日本大震災復興祈願 石玉垣建立記念碑 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、関東地方において大地震が発生した。イワユル東日本大震災により岩手、宮城、福島、茨城四県に未曽有の大災害に見舞われた…石玉垣ヲ建立スル 平成二十四年五月吉日
八幡塚[古墳]
📍 日本、〒300-4353 茨城県つくば市沼田369 2026-08-17
— 由緒板の原文(読めた字)茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 周隍は不明瞭だが、…
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茨城県指定 史跡 八幡塚 昭和十二年三月九日指定 本古墳は筑波山麓の低位段丘上に、主軸方向を南南東にして構築された前方後円墳で、桜川流域で最大級の規模の古墳である。前方部は遺存状況が悪かったために昭和五三年度に推定復元されており、後円部頂には八幡社が祀られている。墳丘復元に先立つ茨城大学の発掘調査によると、全長約九〇m、後円部径約五八m、前方部長約三一m、同先端幅約三五m、後円部は三段、前方部は二段以上の構築で、裾部に葺石や埴輪のあったことが確認された。 周隍は不明瞭だが、前方部東側の八幡池を中心に墳丘東側には存在していたようである。写真の人物埴輪頭部は八幡池から出土したという。 築造時期は主体部が未調査のため明確ではないが、墳丘出土の埴輪から、古墳時代後期、六世紀前葉頃と考えられている。当時は墳丘が巨大化し、埴輪祭祀が行われ、地域毎に有力な政治集団が成長、発展した時代である。そのため本古墳は当地方の国造だったとされる阿閇色命の墳墓との説もある。 なお西方約六〇mに横穴式石室を露出する円墳が所在している。 平成八年三月 つくば市教育委員会
雷神社[神社]
📍 日本、〒289-2616 千葉県旭市見広1366−1 2026-08-16
— 由緒板の原文(読めた字)雷神社由緒〔雷大神〕 【創建】 雷神社(ライジンジャ)は、第十二代景行天皇が皇子日本武尊の東征の跡を御巡行なされた際、椿湖を望むこの地に立たれ、東国の総鎮守として創建された。古来より見広城主嶋田三河守を始め、千葉氏・源氏・松平氏等の崇敬も篤く、江戸時代からは海上郡十三郷の総鎮守として今日に至っている。 御祭神 天穂日命 別雷命 鎮座地 海上郡海上町見広一三七一番地 【御祭神】 鎮地の神々 雷神社の神々は自然を治め、地上に起こる災いを鎮め、人々を守護し賜う神である。 主祭…
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雷神社由緒〔雷大神〕 【創建】 雷神社(ライジンジャ)は、第十二代景行天皇が皇子日本武尊の東征の跡を御巡行なされた際、椿湖を望むこの地に立たれ、東国の総鎮守として創建された。古来より見広城主嶋田三河守を始め、千葉氏・源氏・松平氏等の崇敬も篤く、江戸時代からは海上郡十三郷の総鎮守として今日に至っている。 御祭神 天穂日命 別雷命 鎮座地 海上郡海上町見広一三七一番地 【御祭神】 鎮地の神々 雷神社の神々は自然を治め、地上に起こる災いを鎮め、人々を守護し賜う神である。 主祭神の天穂日命は天照大神の御子で、当地方の祖神である。大神は天照大神から地上の悪神を鎮める命を受け、地上の乱れを平定した。国土開発・商売繁盛・産業振興の守護神として信仰されている。 別雷命は、平安時代の始め(桓武天皇の延暦十二年・西暦七九三年)に京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)より御迎えした大神で、これにより桓武天皇から『雷大神』の称号を賜った。大神は雨と治水を司り、大自然を支配する神である。祈雨止雨、河川の治水、更に農業・漁業・天蚕業のほか諸産業の守護神として崇敬を集めている。また、人類の邪悪を祓い除き、地鎮・諸災厄除け・開運・方位除災・平和福祉の増進を達成される神である。 【式年銚子大神幸祭】 堀川天皇の康和四年(西暦一一〇二年)に銚子市高神一帯に大津波が起こり、大嵐が続いた。この時、天皇の勅命により雷神社、豊玉姫神社、東大社の三社が御神幸祭を斎行し、天変地異を鎮めた。以来、御神幸祭は第九回までは毎年行なわれ、第十回からは二十年毎の式年祭として今日に至っている。平成二年と二十二年四月の斎行である。 【祭禮】 一月一日 元旦祭 二月三日 節分祭 二月二十五日 例大祭 三月十五日 例大祭 六月三十日 水無月大祓 九月十五日 例大祭 十一月二十三日 新嘗祭 十二月三十一日 師走の大祓 【指定文化財】 無形民俗文化財 雷神社の御神幸 天然記念物 雷神社の森 有形民俗文化財 雷神社の力石
権現塚古墳[古墳]
📍 日本、〒314-0114 茨城県神栖市日川4244 2026-08-16
— 由緒板の原文(読めた字)権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから…
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権現塚古墳 「古墳時代」とは、弥生時代に日本各地に現われた「クニ」が大和(今の奈良県)を中心として統一された四世紀から七世紀のことであり、ちょうどそれは巨大な古墳が盛んに築かれた時期であるため、古墳時代と呼ばれています。 この大和を中心とした古代政権の統一により、「古墳」という墓制が全国的に広がり、各地の首長の墓として作られるようになりました。 この権現塚は長さ約二〇m、標高約五・六mの東西方向を主軸とする「前方後円墳」と呼ばれる古墳です。前方部より後円部が高いことから古墳時代前期に造られたと考えられます。後円部は遺体の埋葬施設であり、前方部は葬送儀礼(葬〔判読不能〕)を行う場であると〔判読不能〕。前方部への通路であったと思われます。現在市内に残っている唯一の〔判読不能〕であるとともに、この権現塚も自然堤防上の微高地(たとえば丘や山頂)を利用する〔判読不能〕。 この〔判読不能〕側には古墳時代〜奈良・平安時代にかけて営まれた集落址で、この集落の人々が首長を埋葬するため権〔判読不能〕塚道路が存在しており〔判読不能〕 古墳も五世紀後葉には小型化していき、七世〔判読不能〕には地方の豪族の権力が弱まったことを示すといえるでしょう。 神栖市教育委員会
海上雷神社(雷神社)[神社]
📍 日本、〒289-2616 千葉県旭市見広1371 2026-08-16
— 由緒板の原文(読めた字)【津島大神】 宮本見広の祇園祭(夏祭り・七月下旬)に渡御する神輿、須佐之男命(スサノヲノミコト)が御奉斎される神輿である。祇園祭は京都の祇園の八坂神社の煌びやかな夏祭りが全国に広がったもので、当社では江戸時代の享和四年(一八〇四)に、同一神を祀る愛知県の津島神社の御祭神を勧請し、境内の石宮にお祀りした。この神輿も原型は古い様式を踏襲しているが、細工が精巧で、〔判読不能〕を用いるなど優れた技法で建造されている。昭和四十五年に建造されたものと平成二十四年に大規模改修を行っている。…
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【津島大神】 宮本見広の祇園祭(夏祭り・七月下旬)に渡御する神輿、須佐之男命(スサノヲノミコト)が御奉斎される神輿である。祇園祭は京都の祇園の八坂神社の煌びやかな夏祭りが全国に広がったもので、当社では江戸時代の享和四年(一八〇四)に、同一神を祀る愛知県の津島神社の御祭神を勧請し、境内の石宮にお祀りした。この神輿も原型は古い様式を踏襲しているが、細工が精巧で、〔判読不能〕を用いるなど優れた技法で建造されている。昭和四十五年に建造されたものと平成二十四年に大規模改修を行っている。 【天満宮】 祇園祭(夏祭り)の際に、宮本の見広区内を渡御する子供神輿。子供神輿の渡御が暫く途絶えていたため、昭和五十二年にこの神輿を建造し、境内石宮に天満宮を勧請して御祭神となした。雷神社の御神輿は、子供神輿のみならず、雷大神、津島大神に至るまで全て、地元宮大工の手により造営されたものである。
大塚原古墳[古墳]
📍 日本、〒289-2533 千葉県旭市大塚原1177 2026-08-16
— 由緒板の原文(読めた字)旭市指定史跡 大塚原古墳 昭和五十二年一月二十五日指定 近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。 伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を、「藤原鎌足」の出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿の海…
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旭市指定史跡 大塚原古墳 昭和五十二年一月二十五日指定 近江国(現在の滋賀県)に都のあった近江朝廷時代、「大友皇子」(後に弘文天皇と贈り名)軍と「大海人皇子」軍が対立する壬申の乱(西暦六七二年)が起り、敗れた「大友皇子」は近江国で自ら死を選んだ。 伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝」らを従え海路を、「藤原鎌足」の出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。妃は内裏塚(現在の匝瑳市野手)に葬られ、従者たちは椿の海近くで亡き妃を偲びつつ農耕生活を送ったという。後に浪荒い海岸からここ大塚原に改葬し、その霊を慰めるため近くに内裏神社を創建したという。 このことは長い間、村人たちによって語り伝えられ尊崇され、内裏神社では三十三年ごとに大祭を行ない、最近では平成十五年に大祭が盛大に行われた。 明治二十四年、風雨で墳丘が崩壊した時に、従者中臣英勝の名を刻んだ石板、及び人骨、数点の土器類が出土したが、その時は学問的調査もされず埋め戻された。 昭和四十六年十一月、改めて大塚原古墳の整備を行ない、その際、出土した甕の中からいくつかの人骨を発見した。千葉県教育委員会、旭市教育委員会、大塚原、泉川、川口の地元関係区、などによって、人骨を新潟大学医学部に鑑定を依頼した。その結果、長い歳月を経てきたため細片化し、体数、性別など明確でなかったが、中に高貴の人の埋葬に使用したと思われる朱の付いたか細い骨片が発見された。 長い間の伝承と石板、及び出土人骨の朱から、ここは弘文天皇妃耳面刀自媛や従者中臣英勝らを埋葬した墳墓と考えられ、『弘文天皇妃耳面刀自媛之陵墓』とした。 令和元年七月 旭市教育委員会
下羽黒神社[神社]
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲37 2026-08-15
— 由緒板の原文(読めた字)下館初代城主水谷氏尊崇の神社 下羽黒神社 筑西市大町甲三七番地 七羽黒神社の中心の神社。文明十年(一四七八)水谷左近将監勝氏(初代)が結城家より独立し、下館に築城。三年後の文明十三年(一四八一)羽黒大神を勧請した。 勝氏は、古式により下館城の鬼門の稲野辺村、風門の下岡崎村、病門の外塚村、天門の岡芹村に五つの羽黒神社を創建した。 その後、天文十四年(一五四五)水谷政村(六代)が久下田に築城、鬼門にあたる大根田村と病門にあたる口戸村に羽黒神社を創建した。世に七羽黒と呼ばれている…
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下館初代城主水谷氏尊崇の神社 下羽黒神社 筑西市大町甲三七番地 七羽黒神社の中心の神社。文明十年(一四七八)水谷左近将監勝氏(初代)が結城家より独立し、下館に築城。三年後の文明十三年(一四八一)羽黒大神を勧請した。 勝氏は、古式により下館城の鬼門の稲野辺村、風門の下岡崎村、病門の外塚村、天門の岡芹村に五つの羽黒神社を創建した。 その後、天文十四年(一五四五)水谷政村(六代)が久下田に築城、鬼門にあたる大根田村と病門にあたる口戸村に羽黒神社を創建した。世に七羽黒と呼ばれている。 羽黒神社は境内六千余坪、三十七石を寄進し、水谷家の武運長久、領民の安泰を祈願している。 水谷氏移封後も、松平、増山、黒田、石川等歴代藩主の尊崇篤く、享保十三年(一七二八)黒田直邦が本殿の大改修を行なった。 昭和五年六月郷社に列せられる「下館領内神社寺院附縁起旧跡」には、下羽黒山大権現、別当天台宗、正観院清瀧寺御朱印二十石、水谷家之鎮守、元和四年戊午年建立。水谷伊勢守勝隆、祭礼毎年十月十四日より十七日まで。 尚、平成十四年本殿が茨城県文化財(建造物)に指定。 寄贈 下館商工会議所 〔愛宕神社説明板より〕 愛宕神社 筑西市大町甲三七番地 下羽黒神社境内の西側にある。祭神は伊弉冉尊、火産霊神で往時は西郷谷(現在の羽黒神社付近)の鎮守として世人の尊崇が篤かった。文明十年(一四七八)水谷氏が下館に進出、同十三年(一四八一)羽黒神社を勧請したときに、羽黒神社西側に移した。愛宕神社の御神体は、鎌倉時代の作といわれ、木造彩色で翼をもった異形で珍しいものである。昭和三十八年七月茨城県文化財(彫刻)に指定。〔以下判読一部略〕 寄贈 下館商工会議所
羽黒神社[神社]
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲35−4 2026-08-15
— 由緒板の原文(読めた字)大朋稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神 商売繁盛・五穀豊穣・家内安全 穀物・産業 守り神様
日限天満宮[神社]
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲37 2026-08-15
— 由緒板の原文(読めた字)〔石鳥居扁額〕日限天満宮 〔鳥居柱〕献/奉 〔社号標・看板〕學業試験合格祈願社 日限天満宮 祭日一月二十五日・初天神の日 〔石碑〕東参道 記念之碑
小舘音頭歌碑[その他]
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲42−3 2026-08-15
— 由緒板の原文(読めた字)下館音頭歌碑 作詞 矢野〓 作曲 〓〓 中山晋平編曲 八、踊り 九、〓恋 十、〓 男伊達とて 〓の〓花と 〓がゆかりの〓山の 自由の〓の〓〓〓〓
作詞家 矢野亮先生 顕彰之碑[その他]
📍 日本、〒308-0021 茨城県筑西市甲40−7 羽黒児童公園 2026-08-15
— 由緒板の原文(読めた字)作詞家 矢野亮先生 顕彰之碑 夕焼け空がマッカッカ とんびがくるりと輪を描いた ホ〜イのホイ     筑西市長 須藤〔判読不能〕 書 夕焼けとんびをはじめ、一千曲以上のヒット曲を作詞した矢野亮先生の功績を称え、ここに顕彰する 主なヒット曲 夕焼けとんび 歌・三橋美智也 リンゴ村から 歌・〃 唐獅子牡丹 歌・高倉健 おーい中村君 歌・若原一郎 あん時やどしゃぶり 歌・春日八郎 星影の小径 歌・小畑実 ブギ真室川音頭 歌・林伊佐緒 待ちましょう 歌・津村謙 喫茶店の片隅で …
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作詞家 矢野亮先生 顕彰之碑 夕焼け空がマッカッカ とんびがくるりと輪を描いた ホ〜イのホイ     筑西市長 須藤〔判読不能〕 書 夕焼けとんびをはじめ、一千曲以上のヒット曲を作詞した矢野亮先生の功績を称え、ここに顕彰する 主なヒット曲 夕焼けとんび 歌・三橋美智也 リンゴ村から 歌・〃 唐獅子牡丹 歌・高倉健 おーい中村君 歌・若原一郎 あん時やどしゃぶり 歌・春日八郎 星影の小径 歌・小畑実 ブギ真室川音頭 歌・林伊佐緒 待ちましょう 歌・津村謙 喫茶店の片隅で 歌・松島詩子
田中稲荷愛宕神社[神社]
📍 日本、〒308-0031 茨城県筑西市丙123−12 2026-08-15
— 由緒板の原文(読めた字)田中稲荷 愛宕神社改修記念碑 〔側面〕 …稲荷神社 …末社 炎火鎮座〔之碑〕
神明神社[神社]
📍 日本、〒308-0813 茨城県筑西市大塚218 2026-08-15
— 由緒板の原文(読めた字)御大典紀念 神宮改築〔判読不能〕碑 遷座式 昭和三年〔判読不能〕 社〔判読不能〕
稲荷神社[神社]
📍 日本、〒311-2424 茨城県潮来市潮来216 2026-08-10
— 由緒板の原文(読めた字)由緒 祭神 宇迦之御魂の命 本社は、宝暦十三年四月二十八日(西暦、一七六三年四月二十八日)に、京都伏見稲荷神社の御分霊を、お迎えして、一時長勝寺に奉斎せるものなり。その後、現在地に神殿を新造して奉斎する。境内は眺望佳き所に位しその広さは八八七坪(二、九二七平方メートル)を有する。 本社は、新たなる宗教法人法に基づき昭和二十七年八月十一日、宗教法人稲荷神社として設立登記されて現在に至る。 本社は、神社神道に従って、祭祀を行い、神徳を弘め、本神社を崇敬する者及び信仰する者を教化…
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由緒 祭神 宇迦之御魂の命 本社は、宝暦十三年四月二十八日(西暦、一七六三年四月二十八日)に、京都伏見稲荷神社の御分霊を、お迎えして、一時長勝寺に奉斎せるものなり。その後、現在地に神殿を新造して奉斎する。境内は眺望佳き所に位しその広さは八八七坪(二、九二七平方メートル)を有する。 本社は、新たなる宗教法人法に基づき昭和二十七年八月十一日、宗教法人稲荷神社として設立登記されて現在に至る。 本社は、神社神道に従って、祭祀を行い、神徳を弘め、本神社を崇敬する者及び信仰する者を教化育成し、社会福祉に寄与するものである。 祭事は、毎年二月の初午の日に盛大に挙行し、氏子の繁栄と商売繁盛等の祈願を行う。
薬師寺[寺]
📍 日本、〒315-0146 茨城県石岡市菖蒲沢614−1 弁天池 2026-08-10
— 由緒板の原文(読めた字)市指定文化財 薬師如来像 指定日 昭和四十三年三月十五日 この座像は昔から「薬師様」と呼ばれているが、この座像の形態は釈迦像に類し、真の薬師如来像は、しかしその座像の胎内に在ったといわれていた、その真偽は不詳であるが、筑波四面の薬師(菖蒲沢・小幡・椎尾・東成寺)と称し広い地域の人々より信仰されていた。座像は二度の火災から村人に救われたが、記録を焼失し由来も不詳。概ね室町期の作と推察される。 仁王像 指定日 昭和四十七年十一月七日 この仁王像も二度の火災から難を救われた…
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市指定文化財 薬師如来像 指定日 昭和四十三年三月十五日 この座像は昔から「薬師様」と呼ばれているが、この座像の形態は釈迦像に類し、真の薬師如来像は、しかしその座像の胎内に在ったといわれていた、その真偽は不詳であるが、筑波四面の薬師(菖蒲沢・小幡・椎尾・東成寺)と称し広い地域の人々より信仰されていた。座像は二度の火災から村人に救われたが、記録を焼失し由来も不詳。概ね室町期の作と推察される。 仁王像 指定日 昭和四十七年十一月七日 この仁王像も二度の火災から難を救われたが由来も製作者も不詳である。憤怒の様相より鎌倉期またはそれ以後の作と推察される。身大二m十cm 顔面と手足の一部に破損を見るが仁王像としての形態を保ち 今も薬師様守護の任を果たしている。 薬師寺の火災 伝承によると大同年間に建立 正保三年(一六四六)火災 元禄九年(一六九六)再建 天保十年(一八三九)山火事により全焼 山門・鐘堂・堂塔・記録書類を焼失 天保十三年(一八四二)小規模に再建 石岡市教育委員会
石造地蔵菩薩立像(湯地蔵)[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田4002 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)茨城県指定 彫刻 石造地蔵菩薩立像(石造龕を含む) 昭和三十七年十月二十四日指定 像高 一五七・五cm このあたり一帯は、三村山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を〔判読不能〕「尼寺入り」といい、かつては、僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでいたことだろう。 建長四年(一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地にとどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔などが現存する。それらは、忍性止住の間…
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茨城県指定 彫刻 石造地蔵菩薩立像(石造龕を含む) 昭和三十七年十月二十四日指定 像高 一五七・五cm このあたり一帯は、三村山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を〔判読不能〕「尼寺入り」といい、かつては、僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでいたことだろう。 建長四年(一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地にとどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔などが現存する。それらは、忍性止住の間につくられたものかどうか確証はないが、西大寺系律宗文化の介在とその影響のもとに、つくられたものであることは明らかである。忍性は弘長元年(一二六一)鎌倉に去る。本像はその二十八年後の正応二年(一二八九)に造立されたものである。仏龕奥壁の左右に、次の銘文が刻まれている。 (右)右為法界衆生平等利益也 檀那左衛門尉 (左)正應二年丑十一月十日造立 勧進佛子阿浄 左衛門尉は小田氏の四代時知か、あるいは五代宗知に推定される。阿浄は「西大寺有恩過去帳」にその名が見える。 本像は、約七〇センチ角の方柱状花崗岩を使って、その一石に、本体及び蓮華座、そして錫杖・宝珠・頭光を高浮彫り風に彫出し、背面を残して奥壁とする。この両側に幅約六〇センチ、厚さ約一六センチの側壁を立て、上に屋蓋を乗せて龕を形づくる。惜しくも相輪を欠失するが、ほかは全て当初のままである。 俗に「湯地蔵」といわれ、安産と乳が出るようにという祈願のために、小田の人々によって守られてきたのである。本像は鎌倉時代後期の在銘石造地蔵菩薩像として、また屋蓋付の石龕におさまる完好な遺物として、美術工芸史的にもきわめて重要な作品である。 平成元年三月 つくば市教育委員会
極楽寺公園(忍性記念)[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田 545F+9M 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)極楽寺と忍性について ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。 極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。それは民心を掌握するための手段であった。寺社領を寄進したり、寺社領内の寺院や…
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極楽寺と忍性について ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。 極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。それは民心を掌握するための手段であった。寺社領を寄進したり、寺社領内の寺院や神社を修復したりするのは通例のことであった。八田家によって造営された極楽寺の規模について〔判読不能〕この時寄進された鐘は土浦市の等覚寺に現存する。 奈良西大寺の僧忍性がこの地に来たのは建長四年(一二五二)のことであった。仏法を興隆し衆生に利益〔判読不能〕僧侶は髪を剃り僧衣を着てはいるが、実際のところ〔判読不能〕戒律も知らず、僧として勤むべき修行も怠る有様であった。律を弘め〔判読不能〕この極楽寺について常州三村山八坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺ナリといわれるまでになった。 正嘉二年(一二五七)に至り、忍性は極楽寺の遺趾である〔判読不能〕舎を一新した。それが今に残る極楽寺の堂である。山腹には薬師堂がそびえたち、山裾には僧寺と尼寺が並びたって、壮麗な景観であったことだろう。 戦火を免れた石造物は小田の地に数多く残っている。不殺生界碑・石灯籠・宝篋印塔・地蔵菩薩立像・五輪塔など稀代の名品である。 忍性は小田の地を去って鎌倉に移った後、鎌倉の極楽寺においてその生涯を終った。 平成二十六年四月 宝篋山整備隊
三村山清冷院極楽寺 石造五輪塔[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田 545F+9M 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)石造五輪塔(花崗岩 総高二七六・五cm) つくば市文化財 三村山清冷院極楽寺奥の院の本塔は、石造基壇の上に辺長一四三センチ、高四四・五センチの基礎をすえ、その上にこの五輪塔が立つ。基礎は側面を二区に分ち、各々に流麗な格狭間を作る。基礎上面は反花座とし、中心五葉と両端に位一葉ずつの間弁のある単弁蓮華文を各面に彫出する。 地輪は幅一〇七・五センチ、高七〇・五センチ、きわめて整美に彫成されている。水輪は最大径九五センチ、高六九・五センチあり、やや扁平な形状ながら、満々たる張りを示…
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石造五輪塔(花崗岩 総高二七六・五cm) つくば市文化財 三村山清冷院極楽寺奥の院の本塔は、石造基壇の上に辺長一四三センチ、高四四・五センチの基礎をすえ、その上にこの五輪塔が立つ。基礎は側面を二区に分ち、各々に流麗な格狭間を作る。基礎上面は反花座とし、中心五葉と両端に位一葉ずつの間弁のある単弁蓮華文を各面に彫出する。 地輪は幅一〇七・五センチ、高七〇・五センチ、きわめて整美に彫成されている。水輪は最大径九五センチ、高六九・五センチあり、やや扁平な形状ながら、満々たる張りを示す。火輪は最大幅一〇四センチ、高六〇・五センチあり、軒中央部で有るか無きかわずかに反り、端に至って鋭く反り上る。軒口は鮮やかで、屋根流れは少しのよどみもない。風・空輪は一石で、〔判読不能〕垂直に整えられ、空輪は〔判読不能〕最大幅四七センチ、高七五・五センチ、風輪は重厚な曲線を描き、〔判読不能〕ばかりの張りがある。全体として、力強い作品であり、鎌倉時代後期の全国的にも珍しい本格的な五輪塔である。 〔判読不能〕一連の作風を示すものか西大寺、奈良西大寺の叡尊五輪塔、鎌倉極楽寺の本塔もこの流れ〔判読不能〕鎌倉後期の完成された様式の五輪塔の中でも、〔判読不能〕系石工による作品である。忍性ゆかりの三村山極楽寺の本塔もこの流れ、額安寺の忍性五輪塔がそれであり、〔判読不能〕に属するものと考えられる。 NPO法人小田地域振興協議会 つくばスタイル事業

電子ご由緒は、説明板などをもとにAIが読み解いた非公式の読み物です。

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