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由緒大辞典

KAMI-LEGACY

土地の由緒を、種別・神仏・主題・地域から引く。
原文(由緒板の写し)と、AIの読みは分けて扱う。

84 由緒あり / 84 うち原文取得済み
種別 全て その他13 古墳9 城址1 18 神社40 遺跡3
主題 神仏習合9 山岳信仰6 鎮魂6 天神信仰5 前方後円5 横穴式石室5 律宗4 忍性4 筑波山4 阿弥陀信仰4 道祖神4 地蔵信仰3 磐座3 稲荷3
神仏 阿弥陀如来8 地蔵菩薩4 宇迦之御魂神3 菅原道真3 薬師如来2 火産霊神2 大国主命2 岐神(くなどのかみ)2 天鳥船神(あまのとりふねのかみ)2 住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)2 応神天皇(八幡神)2 稚産霊神2
▽ もっと(全92柱)
埴山姫命2 木花開耶姫命2 観音菩薩2 勢至菩薩2 一言主大神2 素戔嗚1 木花咲耶姫命1 不動明王1 弘法大師(遍照金剛)1 羽黒大神1 伊弉冉命1 愛宕神1 天照大神1 天穂日命1 別雷命1 於岐都説神(おきつせのかみ)1 雷大神(別雷神)1 須佐之男命(津島大神)1 菅原道真(天満宮)1 稲荷神(宇迦之御魂神)1 田の神1 牛頭天王(天王宮)1 少彦名命1 大己貴命1 宇気母知神(保食神)1 伊邪那岐命1 伊邪那美命1 市杵嶋姫命1 須佐之男命1 金山比古命1 八幡神1 天御鉾命1 イザナギノミコト1 天御中主神1 国常立尊1 筑波男神(伊弉諾尊)1 筑波女神(伊弉冉尊)1 弥勒菩薩1 鹿島明神(武甕槌)1 白鳥明神1 弁天1 天照皇大神1 伊弉諾尊1 伊弉冉尊1 六神(六祖神霊)の荒御魂1 司官御霊1 蔵王権現1 志那都比売神1 中筒男神1 志那都比古神1 猿田比古神1 木花咲耶姫神1 武甕槌命1 建御名方命1 事代主命1 毗那良珠命1 天神(天神社)1 道祖神1 大山咋神1 道祖神(塞の神)1 猿田彦命1 日本武尊1 毘沙門天(多聞天)1 波切不動明王1 弘法大師1 天満大自在天神1 稲荷尊1 大弁財天1 熊野権現1 馬頭観音1 清龍権現1 素戔嗚尊1 イワナガヒメ(磐長姫)1 がま大権現(光誉上人)1 十一面観音1 六道能化地蔵菩薩1 三宝荒神1 大山祇命1 積羽八重事代主神1 市杵島姫命1
並び 新しい順 社名 地域

18件 種別「寺」 で絞り込み

大仙山正法院[寺]
📍 日本、〒419-0111 静岡県田方郡函南町畑毛488 2026-09-13
— 由緒板の原文(読めた字)大仙山正法院 所在・函南町畑毛四八八 宗派・禅宗・曹洞宗 本尊・南無六道能化地蔵菩薩 創建・天正十八年四月 開祖・麟庵東鱗大和尚 開基・傑巌道緑庵主 秘宝・境内に石仏・碑石多し 函南町文化財を守る会
宮山観音堂[寺]
📍 日本、〒300-4504 茨城県筑西市宮山500−4 2026-09-04
— 由緒板の原文(読めた字)市指定有形文化財 宮山観音堂 平成十四年十一月十五日指定 宮山観音堂の創立は明らかでありませんが、江戸時代には鹿島神社の本地仏である十一面観音を祀り、とくに牛馬の安全を護る仏として崇敬されていました。明治の神仏分離によって所属していた無量院が廃寺になり、観音堂は鹿島神社の末社駒形神社となりました。現在の建物は享保八年(一七二三)上棟の棟札があって、様式手法上もその時の建立とみられます。大工棟梁は箱田村(現笠間市)の藤田孫平次で、同人は享保十七年建立の小山寺楼門(岩瀬村)の棟…
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市指定有形文化財 宮山観音堂 平成十四年十一月十五日指定 宮山観音堂の創立は明らかでありませんが、江戸時代には鹿島神社の本地仏である十一面観音を祀り、とくに牛馬の安全を護る仏として崇敬されていました。明治の神仏分離によって所属していた無量院が廃寺になり、観音堂は鹿島神社の末社駒形神社となりました。現在の建物は享保八年(一七二三)上棟の棟札があって、様式手法上もその時の建立とみられます。大工棟梁は箱田村(現笠間市)の藤田孫平次で、同人は享保十七年建立の小山寺楼門(岩瀬村)の棟梁を務め、宝永八年(一七一一)建立の新勝寺三重塔(千葉県成田市)にも関わっています。 桁行(間口)三間、梁間(奥行)三間、寄棟造、向拝一間、茅葺(鉄板で覆う) 中規模の三間仏堂で、様式は和様(床・縁を設ける、長押を付ける、軒を平行垂木とするなど)と禅宗様(組物を詰組とするなど)が混ざり合っています。〔以下判読不能〕 筑西市教育委員会 ──── 宮山観音古墳(みややまかんのんこふん) 宮山観音古墳は、台畑・灯火山古墳とともに筑西市にある3つの前方後円墳のうちの1つです。 古墳の大きさは、次のとおりです。 全長 九二メートル 前方部 幅三〔判読不能〕メートル・高さ四メートル 後円部 直径四五メートル・高さ六メートル 築造は、5世紀早期と考えられています。 筑西市教育委員会
長信院[寺]
📍 日本、〒300-4517 茨城県筑西市海老ヶ島1446 2026-09-03
— 由緒板の原文(読めた字)曹洞宗 長信院 (石柱)曹洞宗/長信禅院
報恩寺[寺]
📍 日本、〒303-0041 茨城県常総市豊岡町丙1587 2026-08-30
— 由緒板の原文(読めた字)報 恩 寺 報恩寺は、鎌倉時代の建保二年(一二二四)、浄土真宗開祖親鸞聖人二十四輩の第一弟子性信坊が、聖人の命によって下総国岡田郡横曽根(現在の常総市豊岡町横曽根)にあった真言宗の廃寺を再興し、念仏道場を開いたことに始まる真宗大谷派の寺院である。 性信坊は、親鸞聖人の越後流罪(旧仏教による専修念仏教団弾圧の際、法然に連座して京都から越後=新潟県に配流)に従い、また聖人の二十余年にわたる関東での教化活動にも随伴した高弟で、貞永元年(一二三二)京都に帰る聖人の命により東国での…
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報 恩 寺 報恩寺は、鎌倉時代の建保二年(一二二四)、浄土真宗開祖親鸞聖人二十四輩の第一弟子性信坊が、聖人の命によって下総国岡田郡横曽根(現在の常総市豊岡町横曽根)にあった真言宗の廃寺を再興し、念仏道場を開いたことに始まる真宗大谷派の寺院である。 性信坊は、親鸞聖人の越後流罪(旧仏教による専修念仏教団弾圧の際、法然に連座して京都から越後=新潟県に配流)に従い、また聖人の二十余年にわたる関東での教化活動にも随伴した高弟で、貞永元年(一二三二)京都に帰る聖人の命により東国での教化布教のため、この地に留まった。その時、性信坊は聖人直筆の「教行信証」を載いた。性信坊の徳を伝え聞き、教えを乞う人々で門前は市をなしたと言われる。それは後に国宝に指定されている。 しかし、戦国時代の兵火によって堂塔はことごとく焼失し、報恩寺は江戸に移された。その後この地に再建されるが、現在の本堂は文化三年(一八〇六)に造営されたものである。 当寺には「お鯉さま」の説話が残されている。性信上人の法話の座にいつも白髪の老人の姿があった。この老人の正体を探ろうとしたが、老人の姿はいつも飯沼のほとりで消えてしまった。その後、飯沼の天神社(大生郷天満宮)の神主の夢枕に白髪の老人=天神(菅原道真公)が現れ「性信の聖は、我が心の悩みを解いた恩師、毎年正月には御手洗の池の鯉を二尾贈るように」と告げた。天福元年(一二三三)のことであった。爾来、正月十日に天満宮から二尾の「お鯉さま」が贈られたという。 大生郷天満宮から贈られた「お鯉さま」は、報恩寺に納められたのち、東京浅草の報恩寺に送られ、十二日、四条流(宮中で用いる膳部料理の流儀)の儀式にのっとった「俎開き」が古式豊かに執り行われる。という行事は連綿と続けられ、現在にいたっている。 常総市観光物産協会 常総市教育委員会
薬師堂[寺]
📍 日本、〒300-4214 茨城県つくば市山口1844 2026-08-28
— 由緒板の原文(読めた字)薬師堂屋根 改修寄進者芳名 平成六年十一月 一般寄付 金壱萬円也 金参萬円也 鴻巣久 中山忠 小林哲夫 金弐萬円也 小松崎ちい 荒井章 坂寄三郎 大熊政 佐藤秀一 坂野友弥 佐藤文子 高根澤善右門 杉山定市 中山隆司 杉山吉男 吉沼博 杉山義〔判読不能〕
泉谷山 寳安土寺[寺]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条416 2026-08-28
— 由緒板の原文(読めた字)泉谷山 寶安土寺 不許葷酒入山門 獻納 〔忠魂碑〕不朽 忠魂碑 〔碑側面・建立銘 判読不能〕
熊野山弥勒院全宗寺[寺]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条381 2026-08-25
— 由緒板の原文(読めた字)不動堂建立記念碑 当山は今より七百有余年の昔、人皇第百代後小松天皇の勅願寺として創建されて以来、脈々と真言密教の法灯を受け継ぎ、今日に伝えて参りました。 かつては、近郷の信仰を集め、古刹として知られ、隆盛を誇っておりましたが、百数十年前に火災のため本堂を焼失したと伝えられております。その際、消失を免れたのが、本尊・波切不動明王のお掛け軸でございます。 当寺の不動堂には、ご本尊様を安置しておりましたが、近年建物の傷みが激しく、風雨を凌ぐのがやっとの状態であります。護摩堂としても…
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不動堂建立記念碑 当山は今より七百有余年の昔、人皇第百代後小松天皇の勅願寺として創建されて以来、脈々と真言密教の法灯を受け継ぎ、今日に伝えて参りました。 かつては、近郷の信仰を集め、古刹として知られ、隆盛を誇っておりましたが、百数十年前に火災のため本堂を焼失したと伝えられております。その際、消失を免れたのが、本尊・波切不動明王のお掛け軸でございます。 当寺の不動堂には、ご本尊様を安置しておりましたが、近年建物の傷みが激しく、風雨を凌ぐのがやっとの状態であります。護摩堂としても使われていることから、今後の寺院活動等を考慮し、平成十七年に不動堂建立を発願いたしました。 平成二十二年十二月吉祥日
無量院[寺]
📍 日本、〒300-4231 茨城県つくば市北条375 2026-08-25
— 由緒板の原文(読めた字)無量院本堂再建記念碑 そもそも無量院の濫觴をたずぬるに、当山は建久元(一一九〇)年十一月、多気山城主常陸大掾多気太郎平義幹公、鎌倉右大将上洛に際し随兵として京師を観て後、祖宗報恩のため一寺を道場山に建立し、西山の道場梅松山無量寿院光明寺と号し〔以下判読不能〕 建久四年義幹公〔判読不能〕庶民のために〔判読不能〕小田城主八田知家〔判読不能〕馬場資幹に改付せらる〔判読不能〕遂に入れられずして駿河の地に憤死せらる〔判読不能〕 〔判読不能〕天台宗を時宗となし〔判読不能〕 正中年中(一…
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無量院本堂再建記念碑 そもそも無量院の濫觴をたずぬるに、当山は建久元(一一九〇)年十一月、多気山城主常陸大掾多気太郎平義幹公、鎌倉右大将上洛に際し随兵として京師を観て後、祖宗報恩のため一寺を道場山に建立し、西山の道場梅松山無量寿院光明寺と号し〔以下判読不能〕 建久四年義幹公〔判読不能〕庶民のために〔判読不能〕小田城主八田知家〔判読不能〕馬場資幹に改付せらる〔判読不能〕遂に入れられずして駿河の地に憤死せらる〔判読不能〕 〔判読不能〕天台宗を時宗となし〔判読不能〕 正中年中(一三二四〜二五)当宗四代呑海大和尚〔判読不能〕当山の鎮守として天満大自在天神・稲荷尊・大弁財天・熊野権現を勧請し〔判読不能〕塔頭甘露院のほか末寺一寺を建立し〔判読不能〕 旧本堂 建立成就 当山三十二世東因和尚 再建発願 当山三十三世察道和尚 享保十二(一七二七)年二月二十九日 当山五十一世敬道和尚の記録 大正六(一九一七)年茅葺き本堂屋根を瓦葺きとす。昭和十三(一九三八)年六月大豪雨 同年九月大台風により本堂大破のため修復工事。 新本堂 建立成就 当山五十三世朝海和尚 平成十六(二〇〇四)年十一月六日落慶 〔判読不能〕二〇〇〇年十月、建立以来二七〇余年の風雪に耐えし堂宇の再建を決議す。完成まで満四年の歳月を要せり。
常願寺[寺]
📍 日本、〒304-0031 茨城県下妻市高道祖304 0031 2026-08-24
— 由緒板の原文(読めた字)県指定文化財 彫刻 金銅 阿弥陀如来三尊像 3躯 指定年月日 昭和37年2月26日 所在地 下妻市大字高道祖 管理者 常願寺 本尊(中尊) 阿弥陀如来 金銅製 高さ 44.2センチメートル 脇待 観音 〃 〃 29.9センチメートル 勢至 〃 〃 29.7センチメートル 常願寺は真言宗豊山派の寺。号は慈国山阿弥陀院。本堂に本尊として安置されている。古来雨ごいの阿弥陀三尊として名高い。 典型的な善光寺式三尊像である。中尊台座は当初のものが残るが、脇待台座は失われ光背も後補。とも…
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県指定文化財 彫刻 金銅 阿弥陀如来三尊像 3躯 指定年月日 昭和37年2月26日 所在地 下妻市大字高道祖 管理者 常願寺 本尊(中尊) 阿弥陀如来 金銅製 高さ 44.2センチメートル 脇待 観音 〃 〃 29.9センチメートル 勢至 〃 〃 29.7センチメートル 常願寺は真言宗豊山派の寺。号は慈国山阿弥陀院。本堂に本尊として安置されている。古来雨ごいの阿弥陀三尊として名高い。 典型的な善光寺式三尊像である。中尊台座は当初のものが残るが、脇待台座は失われ光背も後補。ともに頭、体部を一鋳に作り、中尊両手首、脇待両肩先を蟻柄差しとする。鋳技優れ美麗な像容であるが、表現はやや硬い。 製作年代は室町時代に入ると思われる。1864(元治1)年天狗党の兵火により、堂宇、古文書などすべて焼失したが、当時の住職宥雅和尚の機転により難をまぬがれたという。 平成3年3月 下妻市教育委員会
石田山 長光寺[寺]
📍 日本、〒300-4521 茨城県筑西市東石田1070−6 2026-08-23
— 由緒板の原文(読めた字)平 国香(たいらの くにか) 国香の父である高望王は寛平元年(八八九)平姓を賜り、上総介として東国(関東)に下り、上総下総常陸にわたり広大な私有地を開き、これらを諸子に分け与え長男の良望(国香)には常陸国真壁郡石田(東石田)が与えられました。 国香は父高望王亡きあと、常陸大じょう鎮守府将軍に就き一族の長として、筑波郡、真壁郡、新治郡一帯の統治を征されることになりました。 国香が住んでいた真壁郡石田・(東石田)は、東は開けた田面と筑波川(桜川)をへだてて筑波の霊峰に対し、西は…
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平 国香(たいらの くにか) 国香の父である高望王は寛平元年(八八九)平姓を賜り、上総介として東国(関東)に下り、上総下総常陸にわたり広大な私有地を開き、これらを諸子に分け与え長男の良望(国香)には常陸国真壁郡石田(東石田)が与えられました。 国香は父高望王亡きあと、常陸大じょう鎮守府将軍に就き一族の長として、筑波郡、真壁郡、新治郡一帯の統治を征されることになりました。 国香が住んでいた真壁郡石田・(東石田)は、東は開けた田面と筑波川(桜川)をへだてて筑波の霊峰に対し、西は大森林地帯、更に西には鳥羽の淡海が漫々と水をたたえており、この地に荘園を持ち、その中心地に居館を構え、村人たちの生活をより豊かにしようと開発勧農に力を注ぎ、率先して開墾の先頭に立ち指揮をとりました。田畑は徐々に広がり、このあたり一帯が美しい水田に変わりました。 承平五年(九三五)平将門と源護の間に争いが起こり、護に味方した国香は自ら軍を指揮して出動したが将門の精鋭軍に敵せず、石田の居館に逃げ帰ったが、将門軍は追撃激しく石田の居館をおそった。国香は傷をかけられ、舎、宅、ことごとくてん滅されてしまった。承平五年二月四日のことである。東石田には国香の墓、居館跡が伝称されている。 筑西市教育委員会
新善光寺[寺]
📍 日本、〒300-4541 茨城県筑西市松原432 2026-08-23
— 由緒板の原文(読めた字)如體山 廣嶋院 新善光寺 本尊 缶三尊阿弥陀如来(阿弥陀佛・観音・勢至菩薩) 宗派 時宗・一遍上人開祖(本山は神奈川県 遊行寺) 教典 無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経・六時礼讃 など 教義 南無阿弥陀佛を唱える〔以下一部判読不能〕大慈悲の阿弥陀佛に帰命する只今の念佛が一番大事なことです。〔中略〕極楽浄土への道はそこに開かれるとする教えです。 開山 解意阿観鏡上人(八田七郎朝勝公)〔一二七八年〕父、八田朝家公の菩提の為、十三歳で出家。証空上人に学び、一遍上人の知遇を得て、奥義を…
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如體山 廣嶋院 新善光寺 本尊 缶三尊阿弥陀如来(阿弥陀佛・観音・勢至菩薩) 宗派 時宗・一遍上人開祖(本山は神奈川県 遊行寺) 教典 無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経・六時礼讃 など 教義 南無阿弥陀佛を唱える〔以下一部判読不能〕大慈悲の阿弥陀佛に帰命する只今の念佛が一番大事なことです。〔中略〕極楽浄土への道はそこに開かれるとする教えです。 開山 解意阿観鏡上人(八田七郎朝勝公)〔一二七八年〕父、八田朝家公の菩提の為、十三歳で出家。証空上人に学び、一遍上人の知遇を得て、奥義を相承し、後の時宗十二派の一つ「解意派」を起こす。一二九三年十月、八十八歳にて往生する。 道場 観鏡上人の舎兄、宍戸家政公の本領、宍戸山尾〔現在の友部町〕に一二三九年造営〔中略〕宍戸氏十四代安芸守義長公が海老ヶ島の郷(現在地)に移城するのに伴い、三十一世朝阿林外上人が道場を当地に移す。 勅額と御綸旨 建武元年(一三三四)二月、後醍醐天皇の新政に功〔中略〕小田氏一門の寺として「解意一派・新善光寺」の勅額を賜される。また、応永十九年(一四一二)十月、後小松院より「代々紫衣と定阿を用いること」という御綸旨を下賜される。 平成七年七月吉日建之
長見山 妙法寺[寺]
📍 日本、〒300-4541 茨城県筑西市松原2918 2026-08-23
— 由緒板の原文(読めた字)日蓮宗 長見山 妙法寺 祖師堂新築浄財 志納金申込受付中 妙法寺
鷺島山西光寺[寺]
📍 日本、〒300-4531 茨城県筑西市築地221 2026-08-23
— 由緒板の原文(読めた字)鷺島山 西光寺 親鸞聖人尊像 日露戰役忠魂碑 明野町指定保存樹 樹種 イチョウ 推定樹齢〔判読不能〕 明野町
慈眼山三光院普門寺[寺]
📍 日本、〒300-4212 茨城県つくば市神郡300 4212 2026-08-17
— 由緒板の原文(読めた字)普門寺の歴史 鎌倉時代末、元亨年間(一三二一年〜一三二四年)〔判読不能〕帯で布教活動を続けていた乗海大和尚によって開かれた真言宗〔判読不能〕山派の寺院である。慈眼山三光院普門寺と号し、平安末期の〔判読不能〕僧都御作の阿弥陀如来が御本尊です。 常陸の豪族小田家の祈願寺として往時の隆盛を極め、末寺六〇八寺を有して、十万石の格式を誇った〔判読不能〕日本仏教史上重要な役割を果〔判読不能〕多く檀林が開かれた田舎本寺として〔判読不能〕した古刹である。しかし歴史の流れの中で浮沈を繰り返し〔…
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普門寺の歴史 鎌倉時代末、元亨年間(一三二一年〜一三二四年)〔判読不能〕帯で布教活動を続けていた乗海大和尚によって開かれた真言宗〔判読不能〕山派の寺院である。慈眼山三光院普門寺と号し、平安末期の〔判読不能〕僧都御作の阿弥陀如来が御本尊です。 常陸の豪族小田家の祈願寺として往時の隆盛を極め、末寺六〇八寺を有して、十万石の格式を誇った〔判読不能〕日本仏教史上重要な役割を果〔判読不能〕多く檀林が開かれた田舎本寺として〔判読不能〕した古刹である。しかし歴史の流れの中で浮沈を繰り返し〔判読不能〕っている。 伽藍、境内の佇まいは素朴であるが〔判読不能〕南高台からの筑波山は絶景ポイント〔判読不能〕 本堂は寛政年間再建、客殿(講堂)が〔判読不能〕年間再建、平成十三年再建、赤門が天〔判読不能〕年間の建立〔判読不能〕不詳、書院は慶応年間新築、境内は九〇〇平方メートル〔判読不能〕両界曼荼羅(江戸期つくば市重文)、小田家供養塔〔判読不能〕十八世元雅大和尚〔判読不能〕遺跡、寛〔判読不能〕天狗党〔判読不能〕蔵鎮魂碑等が現存する。 南無阿弥陀仏
石造地蔵菩薩立像(湯地蔵)[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田4002 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)茨城県指定 彫刻 石造地蔵菩薩立像(石造龕を含む) 昭和三十七年十月二十四日指定 像高 一五七・五cm このあたり一帯は、三村山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を 「尼寺入り」といい、かつては、僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでい たことだろう。 建長四年(一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地に とどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡 が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔などが現存する。それら は、忍性止住の間に…
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茨城県指定 彫刻 石造地蔵菩薩立像(石造龕を含む) 昭和三十七年十月二十四日指定 像高 一五七・五cm このあたり一帯は、三村山清冷院極楽寺の遺趾である。現在の小字名を 「尼寺入り」といい、かつては、僧寺と尼寺の多くの伽藍が、立ち並んでい たことだろう。 建長四年(一二五二)奈良西大寺の僧忍性が来住し、以来十年間この地に とどまって、律宗の布教と伽藍の整備に努めた。小田の地には、その足跡 が様々残り、結界石・宝篋印塔・石灯籠・五輪塔などが現存する。それら は、忍性止住の間につくられたものかどうか確証はないが、西大寺系律宗 文化の介在とその影響のもとに、造営されたことは明らかである。 忍性は弘長元年(一二六一)鎌倉に去る。本像はその二十八年後の正応二 年(一二八九)に造立されたものである。仏龕奥壁の左右に、次の銘文が刻 まれている。 (右) 右為法界衆生平等利益也 檀那左衛門尉 (左) 正應二年丑十一月十日造立 勧進佛子阿浄 左衛門尉は小田氏の四代時知か、あるいは五代宗知に推定される。阿浄 は「西大寺有恩過去帳」にその名が見える。 本像は、約七〇センチ角の方柱状花崗岩を使って、その一石に、本体及 び蓮華座、そして錫杖・宝珠・頭光を高浮彫り風に彫出し、背面を残して 奥壁とする。この両側に幅約六〇センチ、厚さ約一六センチの側壁を立て、 上に屋蓋を乗せて龕を形づくる。惜しくも相輪を欠失するが、ほかは全て 当初のままである。 俗に「湯地蔵」といわれ、安産と乳が出るようにという祈願のために、 小田の人々によって守られてきたのである。 本像は鎌倉時代後期の在銘石造地蔵菩薩像として、また屋蓋付の石龕に おさまる完好の遺物として、美術工芸史的にもきわめて重要な作品である。 平成元年三月 つくば市教育委員会
極楽寺公園(忍性記念)[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田 545F+9M 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)忍性記念 極楽寺公園 極楽寺と忍性について ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。 極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 それは民心を…
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忍性記念 極楽寺公園 極楽寺と忍性について ここにはむかし極楽寺という大きな寺院があった。その始まりは古く平安時代の山岳仏教に由来すると思われる。以来法灯は連綿として受けつがれて来たが、戦国時代に至って戦火に焼かれ亡んだ。 極楽寺がもっとも繁栄したのは鎌倉時代であった。新たに領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 今から約八百年前、常陸国南部一帯の領主となった八田知家は、この寺を再営して寺観を整えた。 それは民心を掌握するための手段の通例のことであった。それは民心を掌握するための手段の通例のことであった。 寺社領を寄進したり、寺社領を寄進したり、寺社領を寄進したりするのは通例の手段であった。この時寄進された極楽寺の規模については全く不明であるが、この時寄進された鐘は土浦市の等覚寺に現存する。 奈良西大寺の僧忍性がこの地に来たのは建長四年(一二五二)のことであった。仏法を興隆し衆生に利益せんとする一大発願に基づくものであった。当時の僧侶は髪を剃り僧衣を着てはいるが、実際のところは僧として守るべき戒律も知らず、僧として勤むべき修行も怠る有様であった。こうした中で忍性は戒律を厳め、あるべき正しい仏の教えを説いた。その影響は周辺にまで広く浸透し、この極楽寺について常州三村山八坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺ナリといわれるまでになった。 正嘉二年(一二五七)に至り、忍性は極楽寺の堂舎を一新した。それが今に残る極楽寺の遺址である。山腹には薬師堂がそびえたち、山裾には僧寺と尼寺が並びたって、壮麗な景観であったことだろう。建戦火を免れた石造物は小田の地に数多く残っている。 ・地蔵菩薩立像・五輪塔など稀代の名品である。 忍性は小田の地を去って鎌倉に移った後、鎌倉の極楽寺においてその生涯を終った。 宝篋山整備隊 平成二十六年四月
三村山清冷院極楽寺 石造五輪塔[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田 545F+9M 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)石造五輪塔 (花崗岩 総高二七六・五㎝) つくば市文化財 三村山清冷院極楽寺奥の院の本塔は、石造基壇の上に辺長一四三センチ、高四四・五センチの基礎をすえ、その上にこの五輪塔が立つ。 基礎は側面を二区に分ち、各々に流麗な格狭間を作る。基礎上面は反花座とし、中心五葉と両端に位一葉ずつの間弁のある単弁蓮華文を各面に彫出する。 地輪は幅一〇七・五センチ、高七〇・五センチ、きわめて整美に彫成されている。 水輪は最大径九五センチ、高六九・五センチあり、やや扁平な形状ながら、満々たる張…
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石造五輪塔 (花崗岩 総高二七六・五㎝) つくば市文化財 三村山清冷院極楽寺奥の院の本塔は、石造基壇の上に辺長一四三センチ、高四四・五センチの基礎をすえ、その上にこの五輪塔が立つ。 基礎は側面を二区に分ち、各々に流麗な格狭間を作る。基礎上面は反花座とし、中心五葉と両端に位一葉ずつの間弁のある単弁蓮華文を各面に彫出する。 地輪は幅一〇七・五センチ、高七〇・五センチ、きわめて整美に彫成されている。 水輪は最大径九五センチ、高六九・五センチあり、やや扁平な形状ながら、満々たる張りを示す。 火輪は最大幅一〇四センチ、軒は中央部で有るか無きかわずかに反り、端に至って鋭く豪快に反り上る。軒口は鮮やかなまでに垂直に整えられ、屋根流れは少しのよどみもない。風・空輪は一石で最大幅四七センチ、高七五・五センチ、風輪は重厚な曲線を描き、空輪ははちきれんばかりの張りがある。全体として、力強い作品であり、鎌倉時代後期の全国的にも珍しい本格的な五輪塔である。 奈良西大寺の叡尊五輪塔、鎌倉極楽寺と大和郡山額安寺の忍性五輪塔がそれであり、忍性ゆかりの三村山極楽寺の本塔もこの流れに属するものと考えられる。 鎌倉後期の完成された様式の五輪塔の中でも、一連の作風を示すものか西大寺系石工による作品である。 NPO法人小田地域振興協議会 つくばスタイル事業
磨崖不動明王立像[寺]
📍 日本、〒300-4223 茨城県つくば市小田4711 2026-08-09
— 由緒板の原文(読めた字)つくば市指定 彫刻 磨崖不動明王立像 昭和五十九年五月二十四日指定 本像はほぼ等身大で、上体をやや左に傾けて、崖面に 露出した花崗岩に彫り込まれている。県内の磨崖仏は線 刻像的な薄肉彫が多く、本像のような本格的な高浮彫は 珍しい。全体的に風化、剝落が激しく、顔貌、体軀、ある いは右手の剣、左手の羂索等はほとんど原形をとどめて いない。しかしながら、像の奥行が八~一六センチある ため、不動明王の忿怒の力強さと古様の風格を今に厳然 と伝えている。また付根が太くて手首が細く引き締…
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つくば市指定 彫刻 磨崖不動明王立像 昭和五十九年五月二十四日指定 本像はほぼ等身大で、上体をやや左に傾けて、崖面に 露出した花崗岩に彫り込まれている。県内の磨崖仏は線 刻像的な薄肉彫が多く、本像のような本格的な高浮彫は 珍しい。全体的に風化、剝落が激しく、顔貌、体軀、ある いは右手の剣、左手の羂索等はほとんど原形をとどめて いない。しかしながら、像の奥行が八~一六センチある ため、不動明王の忿怒の力強さと古様の風格を今に厳然 と伝えている。また付根が太くて手首が細く引き締まる 両腕、すらりと伸びた下脚、細く扁平な足、長い足指な どは、藤原和様の洗練された繊細さを見事に残している。 像は岩座の上に立ち、不整矩形の龕に収まる。 由来などは不明 だが、造立時期は 十二世紀前半と考 えられる。 法量(単位はcm) 像  高 一六七・五 面長   一九・〇 面幅   一五・三 肩幅   四五・〇 右足長  二四・〇 左足長  二五・〇 平成元年十二月 つくば市教育委員会